山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


2021年6月29日を表示

サビーカス ギターの芸術

サビーカス ギターの芸術を視聴してみよう。
サビーカス

SABICAS "EL ARTE DE LA GUITTARRA" / LP/VICTOR JAPON 1973 STEREO
1973年12月に東京のRCAビクタースタジオで、12月2日から6日までの6つのマエストロコンサートの機会に、ITOミュージックオフィスで録音されたサビーカスによる第39回オリジナルLPアルバムの統合。


【参考】
Carmen Amaya
http://okanara6310843.btblog.jp/cm/kulSc5ckM5AC36E21/1/



6月29日(火)16:51 | トラックバック(0) | コメント(0) | 音楽 | 管理

No.15木津川源流3(木津から加茂へ)

御参拝の皆様へ 【一部割愛】

御覧いただいている泉式部の墓や本堂や太鼓堂は自治会の泉町で維持・管理にあたっています。
建物は相当年数がたっており、その補修などに苦慮しているところです。
つきましては、皆様方の浄財をいくばくかでも賜れば幸いです。



玉垣の傍にヤブランが生えていた。
それにしても、玉垣があるということは、ここは神社なのだろうか。
敷地内には末廣大神が鎮座されている。
木津川市木津殿城 末廣大神



和泉式部の墓を後にして木津川堤を歩く。
画像は野焼き。



「↑JR木津駅700m / ↓泉橋寺900m 上狛茶問屋街1km」。
これは日本遺産関連の道標。
日本遺産 『日本茶800年の歴史散歩』~京都・山城~



この道標はここが「京都八幡木津自転車道線 終点」を示している。
この後、前に見える信号機のない道路(R24)を横断。

つづく。



6月29日(火)06:01 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

No.14木津川源流3(木津から加茂へ)

和泉式部の墓。
“墓”となっているが、説明書きにもある通り“五輪塔”。
右の墓標?には「いつミ式部墓」と刻まれているようだ。



同じく説明書きに中世に建立されたであろうとされるので、鎌倉時代か室町時代なのだろう。(1185年~1573年)
風化が著しく凝灰岩が使われているようだ。
凝灰岩 石材としての利用



墓標?の裏には「正慶二年三月二十一日・・」。
正慶二年(北朝)は西暦1333年。



境内の様子。
ところで、このお墓?がある寺院の名前がわからない。
ネット検索してもヒットせず。



これはサルスベリだろう。
かなり年月が経っているようだ。

つづく。



6月29日(火)05:56 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

No.13木津川源流3(木津から加茂へ)

鐘楼らしき建物。


「古のおく 和泉式部墓」と刻まれた石柱。


不動明王像には違いないが、なんだかこれもアンバランス。


石仏は後付っぽい。

よく分からないが、“地蔵菩薩半跏石仏”とでも呼ぶのだろう。



「和泉式部の墓」説明板。

和泉式部は、越前守大江雅到の娘で、清少納言・紫式部とともに平安時代中期を代表する女流歌人である。
生没年は不明。
おおむね十世紀末に生まれ、十一世紀初めに六十歳前後で没したものと思われる。
彼女は、はじめ和泉守橘道貞の妻となる。
そのため和泉式部と呼ばれる。
子供がやはり歌人として有名な小式部内侍である。
その後道貞とも別れ、冷泉天皇の泉子、為尊親王・敦道親王と恋愛する。
このときの恋愛経験を告白的に物語ったものが「和泉式部日記」である。
両親王と死別した後、藤原保昌の妻となる。
晩年は、歌作がなく、全く判っていない。
式部二十歳前後から五十歳頃までの歌数千首を集めたものが「和泉式部集」である。
墓は高さ約一・三メートルの五輪塔で、中世に建立されたものであろう。
伝承によれば、式部は木津の生れであり、宮仕えの後再び木津に戻り余生を過ごしたといわれているが、この伝承を裏付ける資料がなくて残念である。

 いずみがは 水のみわたの 松のうへに
 山かげ涼し 秋のはつかぜ
                  [家集]
和泉式部の墓と称するものは全国各地にあり、なかでも京都市中京区誠心院のものが著名であるが、いずれも極め手を欠いている。
 昭和六十一年三月  木津川市教育委員会

つづく。



6月29日(火)05:50 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理


(1/1ページ)