No.22木津川源流4(笠置から月ヶ瀬口へ) |
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| 戀志谷神社 例大祭の案内。
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| 境内に植栽されていたタラヨウ(多羅葉)の木。
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| ハガキ(葉書)の木として知られる。 タラヨウ
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| 境内に見られたケヤキ?の巨樹。
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| 人と較べると幹周りや木の大きさがわかりやすい。
つづく。
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11月29日(月)06:21 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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No.21木津川源流4(笠置から月ヶ瀬口へ) |
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| 神社の境内へは前方に見える急な石段を登る。
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| 自然石の石碑。 「千年祭記念 天満宮 村内安全」と刻まれていた。
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| 常夜灯が一列に並んでいる。 元は別の場所に設けられたものが、何らかの事情でこの場所に集約されたのでは。
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| 古びた石碑が立っている。 とても読めたものではない。
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| すると、幸いにもその下に説明板があった。
「戀志谷神社口碑傳説 大字南大河原」 この碑にはこのように文字が彫られている。 「當社内二奉鎮座戀志谷姫神ハ人皇九六代後醍醐天皇ノ寵妃ニ座々セシト伝フ 天皇元弘元年笠置山ニ拠テ北条高時ヲ討チ給フ官軍利アラズ翌貳年参月隠岐ニ移リ給エリ時ニ姫神病アリテ伊勢海邊ニ御療養セラレ御平癒アリテ笠置行在所ニ御皈途當區今ノ古森迄テ御着キ給ヒシニ帝既ニ御出行ノ後ナリシ由ヲ聞シ給ヒ悲憤無極遂ニ御持病再發御自刃御崩御セラレシトカヤ 姫神御辞世ニ陛下ノ御身上ヲ愛慕セラレ亦身ノ病苦ヲ歎カセ給ヒ後世ノ人々ノ病苦厄難ヲ恵受セシムト宣工シト口碑ニ遺レリ以信者一同告ケ之ヲ千古ニ傳フ」
現代語訳すると、このようになる。 「当社に祀られている恋志谷姫神は、後醍醐天皇の側女であったといわれています。 後醍醐天皇は元弘元年(1331年)に笠置山で北条高時を討ち破りましたが、天皇の軍勢は旗色も悪く敗れてしまい、翌元弘2年3月に隠岐へ配流されました。 一方その時、姫は病気を治すため伊勢の海辺にいました。そして病気が治った後に後醍醐天皇がいた笠置へと向う途中で、ここ南大河原の古森に着きました。 姫は後醍醐天皇が既に笠置山を去った後であることを聞き、あまりの悲しみのため持病が再発し、自らの命を絶ったのでした。 姫が遺した辞世の句は後醍醐天皇を愛慕していること、また自分の病気を歎きながら後の世の人の病気や苦難をわが身に受けますとあったと言い伝えられています。そのためその言葉を人々に伝え、これを永遠に伝えます。」
南山城村教育委員会
つづく。
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11月29日(月)06:17 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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No.20木津川源流4(笠置から月ヶ瀬口へ) |
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| 「大河原カヌーハウス→」の看板が掲げられていた。 係りの人が何やら作業をしている。 この時期(11月)でもカヌー遊びをするらしい。
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| 集落が現れる。 南大河原のエリアに入った。 南大河原の行政区は京都府相楽郡南山城村。(京都府唯一の村) 南山城村
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| 昔ながらの旧家ばかり。 大河原周辺には新興住宅地がないようだ。 隣の駅、月ヶ瀬口駅の近くには月ヶ瀬ニュータウンがある。
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| 12時12分、社標が二基建つ天満宮社・恋志谷神社(こいしだにじんじゃ)に到着。 ここで昼食。
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| 「天満宮 石鳥居 大字南大河原」の説明板。
柳生宗冬公が父宗矩や2人の兄(長兄十兵衛・二兄友矩)の愛したこの土地の神社(正保4年に合社。恋志谷神社・天満宮社)改築に伴いこの鳥居を建立寄進したものである。 鳥居には銘文が刻まれている。 正保四年 奉建立天神御寶前石鳥居柳生主膳宗冬敬白 亥丁六月二十五日 父や兄が柳生の主人公として深いかかわりのしるしに寄進したものであり、歴代の藩主がこの地を重要視したあらわれである。 奈良県柳生の八坂神社の鳥居も同じく柳生宗冬が建てている。
南山城村教育委員会
つづく。
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11月29日(月)06:14 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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