安寧天皇陵_新沢千塚古墳群公園_ 久米寺13/13 |
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| 久し振りに久米寺の境内に入る。 画像は庚申さん。 左は庚申塔、右は青面金剛。
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| 不動明王と、左の脇侍(わきじ)は矜羯羅(こんがら)童子。 右脇侍に制多迦(せいたか)童子を配した不動三尊。
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| 役行者。 こちらは脇侍なし。
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| 久米寺山門前に立つ、一際目立つ道標。 「右 おかてら た(太)ち花」と刻まれているようだ。 字体から、比較的新しいもので大正年間。
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| 14時丁度に近鉄橿原線橿原神宮前駅にゴールした。
おしまい。
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12月11日(月)06:18 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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安寧天皇陵_新沢千塚古墳群公園_ 久米寺12 |
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| 「史跡 益田池の堤 附樋管 昭和五十五年三月二十八日指定
益田池は、現在の橿原市西池尻町、久米町、鳥屋町にかけての低地につくられた潅漑用のため池である。 「性霊集」巻二所収の「大和州×田池碑銘幷序」によると、弘仁十三年(八二二)に工事に着手したと伝えられる。 益田池の堤は、貝吹山から北に派生してくる鳥坂神社の位置する尾根と、鳥屋橋のある久米大地の西南先端部とのあいだをせき止めてつくられている。 長さは約二00mである。 現存する堤は長さ約五五m、幅約三0m、高さ約八mである。 堤の断面観察によると下層はアコーズとシルトの自然堆積で、上層には土器の混入が認められる。 昭和三十六年四月の河川改修の際、川底から樋管が二ヵ所で出土した。 その位置は堤の外側で樋管は東南東の方向にのびていることが確認された。 また、昭和四十三年九月に堤の内側にある橿原市下水処理場建設の際に樋門と思われる遺構が検出された。 この遺構と先に確認された樋管とが一連のものと考えると約九0mにわたって樋管が存在していたことになる。 樋管の時期については樋門と思われる場所から土師器の皿と黒色土器の椀が出土しており、池の築造時期とほぼ一致している。 益田池の堤および樋管は平安時代以来の治水事業を考える上で重要な資料である。 平成元年3月 奈良県教育委員会」
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| 「益田池の堤
この堤は高取川を堰き止めて大貯水池を作るために平安時代初期に築かれたもので、北は鳥屋端北側、南は鳥坂神社までの長さがあった。 しかし河川改修等の土木工事や土取りで昔の面影が失われてきている。 堤は10cm~30cmごとにつき固め徐々に背を高くしており、途中には黒灰色の強い粘着力のある土をはさんでいる。 高さは海抜80m前後で、現在残っている堤の部分では9m~10m積み上げられていることが判っている。 また堤の幅は広いところで40mに達するのではないかと考えられる。 昭和三十七年現高取川の改修工事の時に巨大な木樋が発見され、益田池に貯水される水量を調節するための導水管が敷設されていることが明らかになった。 推定貯水量は満水時に140万t~180万tである。 なお益田池の堤は、昭和五十五年三月二十八日県指定文化財となっている。」
下記のサイトによると、 益田池
「益田池(ますだいけ、ますだのいけ)は、大和国高市郡、現・奈良県橿原市にかつて存在したため池であり、現在は堤の一部以外消滅している。 橿原ニュータウンがその跡地に建設された。 平安時代初期、弘仁13年(822年)より、高取川に堤防を築いて水の流れをせき止めて作られた巨大な灌漑用の貯水池であり、天長2年(825年)に完成した。 益田池の完成にともない、空海(宝亀5年(774年) - 承和2年(835年))が揮毫した碑文「大和州益田池碑銘幷序」によれば、藤原緒嗣と紀末成が旱魃(かんばつ)の備えと土地の開拓のために造池を計画し、間もなく許可を得ると着工された。 その工事に人夫はもとより車や馬が数多く集まり無事竣工に至ったとされる。 これは、弘仁12年(821年)に空海が改修した讃岐国(香川県)の満濃池の技法を取り入れた成果ともいわれる。 ただし、益田池の工事に空海は直接携わってはおらず、代わりに弟子の真円らが取り組んでいる。」
“益田”という地名は、近辺では“益田岩船”が知られているが、何らかの関係があるのかもしれない。 上記、wikipediaのサイトには、建造時期・用途について、
「最も古くからある説で、弘仁13年(822年)に築造された益田池を讃えた弘法大師の書による石碑を載せるための台であったとしている。 通称の「益田岩船」もこれに由来する。」
【参考:益田池碑銘帖 2版】 益田池碑銘帖 2版 - 国立国会図書館 デジタルコレクション
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| 益田池の堤を後にし、高取川に架かる鳥屋橋を渡る。
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| 小堂が目に入ったので立ち寄る。
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| 地蔵菩薩だが、残念ながら上部が欠損している。 また、風化が著しく、お顔は妖×ではないが、のっぺらぼう(野箆坊)に見えてしまう。
つづく。
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12月11日(月)06:14 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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モーツァルト ピアノ協奏曲第21番 ファジル・サイ 2019 |
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| モーツァルト ピアノ協奏曲第21番 ファジル・サイ 2019を視聴してみよう。 ピアノ協奏曲第21番 (モーツァルト) ファジル・サイ
W.A.MOZART Piano Concerto K467 in C Major, FAZIL SAY, Rostislav Krimer, East-West Chamber Orchestra 【Google翻訳】 W.A.モーツァルト ピアノ協奏曲第21番 K.467 ソリスト - ファジル・サイ イースト=ウェスト室内管弦楽団 首席指揮者 - ロスティスラフ・クリメール 第14回ユーリ・バシュメット国際音楽祭コンサート ベラルーシ国営テレビ ベルテレラジオカンパニーによる録音 ミンスク ベラルーシ 2019年10月
【参考:モーツァルト ピアノ協奏曲第21番】 チョ・ソンジン モーツァルト ピアノ協奏曲第21番 http://okanara6310843.btblog.jp/cm/kulSc65nE623F8938/1/ No.2モーツァルト ピアノ協奏曲第21番 ソン・ヨルム http://okanara6310843.btblog.jp/cm/kulSc63FM60C468E8/1/ モーツァルト ピアノ協奏曲第21番 ★一部再生不可 http://okanara6310843.btblog.jp/cm/kulSc5f1R5E4292A5/1/ マリア・ジョアン・ピレシュ (ピアノ協奏曲第21番) http://okanara6310843.btblog.jp/cm/kulSc623I602240A0/1/
【参考:ファジル・サイ】 モーツァルト ピアノ協奏曲第21番 ファジル・サイ (2017) http://okanara6310843.btblog.jp/cm/kulSc64eN61DD3AFC/1/
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12月10日(日)21:10 | トラックバック(0) | コメント(0) | 音楽 | 管理
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安寧天皇陵_新沢千塚古墳群公園_ 久米寺11 |
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| 宣化天皇陵を正面から撮影。 下記サイトによると、 第28代 宣化天皇
宣化天皇(せんかてんのう)、第28代天皇・・
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| 宣化天皇 宣化天皇皇后 橘仲姫皇女 (たちばなのなかつひめみこ) 身狭桃花鳥坂上陵 (むさのつきさかのへのみささぎ)
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| 宣化天皇陵を後にし、県道133号戸毛久米線を東に向かって歩く。 途中、鳥屋バス停前を通過。
下記、橿原市のサイトによると、鳥屋とは・・・ かしはら町名考
中世を支配した鳥屋氏
室町時代初期の応永一四(一四七)年ごろから鳥屋(とりや)の地名が度々、この地を本拠としていた鳥屋氏に関する記録として多くの古文書に登場します。 鳥屋氏は、中世を通じて橿原市南部一帯を支配した越智氏の一支族でした。 鳥屋氏が当時の地名を採って名にしたのか、逆に地名が鳥屋氏から生れたのか、いまのところ判然としません。 日本書紀の神武天皇二年二月二日条に神武天皇が大伴氏の祖・道臣(みちのおみ)の功をねぎらい、築坂邑(つきさかのむら)を宅地として与えたとあります。 この築坂邑がいまの鳥屋町の一帯と見られており、そこに宣化天皇陵に治定の身狭桃花鳥坂上(むさのつきさかのへ)陵が古くからあります。 身狭は現在の見瀬です。 古代の築坂がやがて花鳥坂と美しく呼び換えられたあと、そこから鳥屋が中世前に出てきたと考えられています。 旧鳥屋集落の東北に鳥坂神社の鎮座しているのが、このことの傍証になるかと思われています。 身狭桃花鳥坂上陵の北約五メートルに縄文時代後期の鳥屋遺跡が、昭和一九年に発見されています。 この地に早くから人の営みのあったことが分かります。
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| 「鳥屋の交差点の南西角に築坂邑(つきさかのむら)傳稱地」の石碑が立つ。
石碑が立つあたりが、上記、「かしはら町名考」に記された場所なのだろう。 ・・日本書紀の神武天皇二年二月二日条に神武天皇が・・・築坂邑(つきさかのむら)を宅地として与えたとある・・
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| 引き続き県道133号戸毛久米線を東に向かって歩くと、左手(北)に「史跡 益田池堤」がある。
つづく。
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12月10日(日)06:08 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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安寧天皇陵_新沢千塚古墳群公園_ 久米寺10 |
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| 一同、昼食を済ませ出発する。 分かりにくいが、赤丸で囲んだところが昼食場所の東屋。
この後、南群エリアに点在する古墳群を見て回った。
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| やがて、南群エリアの南側、境界に沿って歩くようになる。 左側が古墳公園。
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| 右側は橿原高校のグランドで、野球の練習をする生徒たちと挨拶を交わした。
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| この看板はここから向こう(北)が、古墳公園であることを示している。
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| 暫く歩くと、前方に宣化天皇陵が見えてきた。
つづく。
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12月10日(日)05:59 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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安寧天皇陵_新沢千塚古墳群公園_ 久米寺9 |
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| 別のところでトイレを済ませ昼食場所を探す。 まだ暑いので日差しを避けたい。 すると、前方に東屋が見えたので行ってみる。
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| 誰も使用していなかったのでここを利用することに。
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| 国指定史跡 新沢千塚古墳群 昭和五一年三月三一日 史跡指定文部省告示第四四号
新沢千塚古墳群は、貝吹山から西北にのびる丘陵上にあり、総数約六00基からなる日本を代表する群集墳である。 越智岡丘陵と呼ばれるこの丘陵は北と南に分れているため、群集墳はそれぞれを大きく北群、南群として捉えている。 この古墳群の多くは径一0mから三0mの円墳で構成されるが、前方後円墳、方墳、長方形墳を含み、その多様な古墳の存在が特色の一つとなっている。 築造の開始は四世紀後半に遡り、六世紀末頃まで二00年以上営々と造り続けられているが、多数の古墳が築かれたのは五世紀半ばから六世紀前半を中心とする時期であり、他地域の群集墳の先駆となっている。 古墳の埋葬施設は、大多数が木棺をそのまま埋める木棺直葬の形式であるが、南群にある二二一号墳など横穴式石室を有するものも確認されている。 出土遺物は内容が豊富であり、北群にある一二六号墳のように、ガラス皿と碗、青銅製熨斗、金・銀製の冠飾・耳飾・腕輪・指輪などが出土(重要文化財に指定)するなど大陸的要素の強い古墳も含まれており、大陸との関係を知る上でも貴重な古墳といえる。
平成三一年三月
奈良県教育委員会 橿 原 市
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| 昼食後、時間があったので、一人で付近の古墳群を散策。
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| 説明板にもあった通り、総数約六00基という数に驚く。 10~15メートル程度の円墳が行けども行けども続く。
つづく。
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12月10日(日)05:55 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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安寧天皇陵_新沢千塚古墳群公園_ 久米寺8 |
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| 整備された道を歩く。 このような石垣は、当然、後の時代になってから築かれたのだろう。
暫く歩くが、古墳の中に入れなかった。 左側に古墳が見えるのだが、アクセス出来ない。 ルートが少ないことと、スズメバチの巣があるので通行止めになっていた。 また、南方向へ行きたいのだが、西方向に道が続いていた。 すると、右側にクリーンセンターかしはら(ゴミ処理場)が見えてきて、益々、意図しない方向へ歩いている。
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| ようやく古墳公園の入口に到着したようだ。
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| ここが入口。
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| この地図は上が北北東。 案内図の左下、赤四角で囲んだところが現在地。 最初に古墳公園に入ったのは赤矢印のところだった。 そこから、ここまで歩いて来たルートに青線を引いた。 また、この案内図を見て南群エリアがあることを知った。
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| 「シルクの杜」と称する施設が建つ。 中に入ってトイレを借用しようとしたが、土足禁止だったので入館を躊躇した。
つづく。
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12月10日(日)05:50 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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安寧天皇陵_新沢千塚古墳群公園_ 久米寺7 |
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| ここからは北東方向に、こんもりとした畝傍山が見えた。 この方向に大々的な古墳公園が存在することをまったく知らなかった。
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| いきなり「スズメバチに注意!」に少し驚く。 この注意書きがいたるところにあって、この古墳はスズメバチ繁殖のメッカ?になっているようだ。 この日、私は黒色の服を着ていたので気になった。 ハチは黒色を嫌う。(天敵が黒のツキノワグマなので本能的に攻撃する)
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| 小さな古墳が点在している。
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| 夫々の古墳には番号が付けられていた。
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| この辺りは古墳公園の隅っこの方なので、私たち以外に訪れる人の姿を見なかった。 後でわかったが、南群エリアの方が早くから整備されていたらしい。
つづく。
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12月10日(日)05:40 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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安寧天皇陵_新沢千塚古墳群公園_ 久米寺6 |
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| 「西池尻共同墓地」の石柱が立つ。 墓地の中に入らずに横を通り抜けられそう。
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| 地蔵菩薩立像だが、右に刻まれた文字?が読めない。 左にも文字が刻まれているが、同一の石工が刻んだようには見えない。 右側の文字は悪戯とは思えないが。
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| 新沢千塚古墳群公園へ続くであろう小道を歩く。
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| どうやら入れたようだ。
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| 「新沢千塚古墳群公園 北群案内図」。 現在地は地図の中央より少し下。 アジサイ広場の横。 サブエントランスの表示がある。
後でわかったが、この地図は北群エリアのみで、南群エリアもあった。
つづく。
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12月9日(土)06:15 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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安寧天皇陵_新沢千塚古墳群公園_ 久米寺5 |
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| 道路脇に「第三代 安寧天皇陵」の道標が立ってある。
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| 安寧(あんねい)天皇陵を正面から撮影。
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| 「安寧天皇 畝傍山西南御陰井上陵」と記されている。 下記サイトによると、 日本の第3代天皇・・実在性については諸説ある。
安寧天皇
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| 安寧天皇陵を後にし、この日のメインとなる新沢千塚古墳群公園へ向かう。 近鉄南大阪線を横断、高取川に架かる橋を渡り、橿原市吉田町から西池尻町へと歩いて来た。
広大な新沢千塚古墳群公園の場所はわかる。 しかし、公園の裏方向(北端)から歩いて来ているので、公園へ至る道と入口がよく分からない。 やむなく田んぼの畦道を歩くことに。
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| 前方に見える、こんもりとした盛り土が古墳の一つだろう。 その左に小道が見えたので、そこへ向かって歩くことに。
つづく。
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12月9日(土)06:11 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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安寧天皇陵_新沢千塚古墳群公園_ 久米寺4 |
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| 畝傍山周辺案内図。 この地図は上が西を示している。 現在地は右上。 この後、南(左)へ歩き、安寧天皇陵に立ち寄る。 近鉄南大阪線を横断して、更に南へ向かうが、この地図にはその先の記載がない。
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| ここよりもう少し離れたところから、「雪の元」の看板が見えたので、酒蔵かと思っていたがそうではなかった。 この看板には“ひふ外用薬”とあるので製薬会社らしい。
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| 道幅が狭くなっており、クルマの通行に注意して歩く。
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| 「雪の元」の立派な建物が見えて来た。 下記サイトによると、橿原市に本社を置く製薬メーカー。 明治32年、前身である「大谷屋藤本薬房」創設以来・・
株式会社雪の元本店
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| この道路はクルマの通行量が多く、地元ドライバーの“抜け道”となっているようだ。
つづく。
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12月9日(土)06:07 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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安寧天皇陵_新沢千塚古墳群公園_ 久米寺3 |
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| 前方に見える高取川に沿って左(南)へ歩く。 高取川の土手には桜が植えられているようだ。
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| 高取川に架かる橋を渡らず、橋の手前で左折。
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| 暫く高取川の流れと並行して歩く。 (撮影した付近からは高取川は見えない)
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| 吊るし柿にする渋柿だろう。 吊るし柿にする頃合は“木枯らし一号”が吹いた時期が良いという。 理由はそれより早く吊るすと、カビが生えるから。 尚、近畿地方の2023年の木枯らし一号は11月11日だった。
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| 「禅 曹洞宗 慈明禅寺」の寺標と鳥居が立つ。 右手に池があり、その奥にあるようだ。 この日は立ち寄らず。
つづく。
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12月9日(土)06:03 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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安寧天皇陵_新沢千塚古墳群公園_ 久米寺2 |
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| 県道125から離れ、神武天皇陵参道を歩く。 前方に見えるのが神武天皇陵。 コースは参道の途中で左折する。(西)
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| この階段を登る。
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| 森の中に整備された幅広の歩道が橿原市山本町へと続いている。
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| やがて森の中を抜け、山本町の集落の中を歩く。 画像は現在建設中の県立医科大学新キャンパス。
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| 山本大師惠泉寺前を通過。
つづく。
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12月9日(土)06:00 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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安寧天皇陵_新沢千塚古墳群公園_ 久米寺1 |
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| 2023年10月28日(土)は土曜会に参加した。
タイトルは「新沢千塚古墳公園を散策」。 新沢千塚古墳公園を訪れるのはこれが初めて。
コース:近鉄橿原線畝傍御陵前駅_神武天皇陵参道_山本町_安寧(あんねい)天皇陵_新沢千塚古墳群公園_久米寺_近鉄橿原線橿原神宮前駅
画像はこの日歩いたGPSログを表示。
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| 近鉄橿原線畝傍御陵前駅。 地上駅だが、他の近鉄の駅によくある駅舎(改札口)は地下。 外観は大和棟古民家風の造り。
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| 信号機のある交差点で県道125を横断し右へ。(北)
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| 県道125の歩道を北へ歩く。
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| ムラサキシジミだろう。
つづく。
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12月8日(金)05:55 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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