山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


2024年2月5日を表示

野崎駅_野崎観音_河内飯盛山_四條畷神社26

二の丸史蹟碑郭に到着。

後続の人達との距離を縮める為、ここで少し休憩となる。
眺望も良く、ベンチもあって絶好の休憩ポイント。



「飯盛山史蹟」

標高三一八米 地質花崗岩
建武年中北條氏の餘黨此に據り楠木正成之を討ちたりと傳ふ正平三年一月四條畷の戦に方り高師直の軍此を占む楠氏没落後畠山氏河内を領するに及び天文年中其臣木澤長政をして城郭を構へしむ永禄のころ三好長慶威を近畿に振ふに至りこれを略取して数修築を加ふ其規模頗る宏大三好氏十有餘年間軍事庶政の本據たりしが後織田信長の近畿一統に至りて城廢せらる現存せる城址は実に當年のものなり
 大正十三年一月廿六日  大阪府立四條畷中學校校友會



眺望は相変わらず、遠望は利かないものの、降雨よりマシだろう。


マメガキと呼ばれる柿の原種かも。


後続の人達を待つ。

つづく。



2月5日(月)17:51 | トラックバック(0) | コメント(2) | ウォーキング・散策 | 管理

野崎駅_野崎観音_河内飯盛山_四條畷神社25

下山道の途中に石碑のようなものが建つコブがあった。
このコブは二ノ丸御体塚郭。

石碑に立ち寄ってみる。



石碑の傍で登山者が休憩していた。
石碑には「登山参百回記念」と刻まれていた。
この石碑を建てたのは四條畷中学校長らしい。(大正時代)

ネット検索すると、

「二ノ丸御体塚郭は三好長慶の死後、その死を2年間にわたり公表しなかった。
その仮埋墓地だといわれている。」

“御体”とは、“三好長慶”を指すのだろう。
ということは、仮埋墓地に石碑を立てたらしい。
そして、彼は仮埋墓地で休憩する人ということになる。



この石垣は二ノ丸御体塚郭と二ノ丸史蹟碑郭の間にある石垣。


フイックスロープは必要ないが、それでも気が抜けない。


多少、登り返しがある。

つづく。



2月5日(月)17:43 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

野崎駅_野崎観音_河内飯盛山_四條畷神社24

飯盛山からの下山道は登り道以上に急坂。
ここはフイックスロープが設けられている。
また、葉っぱが積もって滑りやすい。



旧登山道は法面崩壊につき、新道を歩くことを誘導している。


分岐。
下山道は左、「四條畷神社・御机神社」方面へ。



傾斜が少し緩やかに。


画像中央右の石垣、多少は整備されただろうが、大きく復元したようには思えない。

下記、四條畷市のサイトによると、
国史跡 飯盛城跡について

「この山城は石垣が多くの曲輪で用いられていることが特徴です。
これらの石垣は石材をほぼ垂直に積み上げており、なかには数段にわたって築いているものもあります。
石垣を多用した城としては織田信長が築いた安土城に先駆ける貴重なものです。
飯盛城はもっとも初期に石垣を使い始めた城で、後の時代の城のように石垣の上に直接建物が乗るのではなく、石垣は城を作るために盛った土の押さえであった可能性があり、城の威容(いよう)を示すためのものだったのではないかと考えられています。」

つづく。



2月5日(月)17:33 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

野崎駅_野崎観音_河内飯盛山_四條畷神社23

飯盛山周辺登山路略図

“略図”だけあって、実際に歩く人の参考にはならないようだ。



展望台からの眺望。
霞んでおりイマイチ。
「あべのハルカス」すら見えない。



直下のお二人。
笑顔が素敵!
・・残念、画像がぼけている―笑。



ここでも紅葉が観られた。


飯盛城と天下人・三好長慶

飯盛城は標高314mの飯盛山に築かれた戦国時代の山城です。城の範囲は東西約400m、南北約700mを測り、大阪府内最大級の規模を誇ります。
飯盛城は、享禄年間(1528~32)、河内守護代木沢長政によって築城され、天文20年(1551) に安見宗房が入城した後、永禄3年(1560)、三好長慶が芥川山城(高槻市)から移り、居城としました。
長慶は、近畿と四国の大部分を治め、将軍足利義輝を京都から追放して政治の実権を握った人物で、「最初の天下人」として知られています。
長慶の入城後、 飯盛城では大規模な連歌会(飯盛千句)が催されたことや、イエズス会の修道士ロレンソ了斎が長慶配下の武将を洗礼したことなどが記録からわかっています。
飯盛山頂の南側の尾根にはVⅢ郭(千畳敷郭)を中心とした曲輪が築かれています。
近年行われた発掘調査で建物の礎石や壁土、食器類、茶道具などが見つかっていることから、居住のための空間であったと考えられます。
一方、山頂北側の尾根にはⅠ郭 (高櫓郭)を中心に大小様々な曲輪が階段状に配され、要所に堀切や土橋、切岸などが設けられていることから 防御のための空間であったと考えられます。
Ⅰ郭とV郭(御体塚郭)を取り巻くように築かれた石垣は、飯盛城が安土城に先行する本格的な石垣づくりの城であったことを物語っています。
これらの遺構は、三好長慶によって整備されたものと考えられ、「天下人の城」にふさわしい威容を誇っています。
   令和元年6月 大東市教育委員会

つづく。



2月5日(月)17:21 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

野崎駅_野崎観音_河内飯盛山_四條畷神社22

楠木正行(くすのきまさつら)は楠木正成の嫡男。

下記のサイトによると、
楠木正行

「正平3年/貞和4年1月5日(1348年2月4日)、河内国讃良郡野崎(大阪府大東市野崎)から北四条(同市北条)で発生した四條畷の戦いにおいて、幕府の総力に近い兵を動員した高師直と戦い、一時は師直を本陣である野崎から後退させるなど優位に立つも、追った先の北四条で力尽き、弟の正時や従兄弟の和田新発を含めた26人の将校と共に戦死した。」



国旗掲揚台。

大東市役所のサイトによると、

「昭和14年に、地域の防空・防火を担う四條畷警防団が設立されたことを記念し、建設されたもの。」



「飯盛城址」の石碑。


飯盛城

飯盛城は、生駒山地の北部にそびえる標高314mの飯盛山に築かれた中世の山城です。
飯盛山は、東側に深い谷を有し、北と西側は非常に険しく、また河内平野や遠くは京都まで一望できることから、軍事的に重要な場所とされていました。
そのため、南北朝時代には城が築かれたと推定され、本格的に整ったのは畠山の家臣、木沢長政が居城とした享禄4年(1531)の頃とされています。
その後、交野の土豪であった安見直政が城主の時期もありましたが、永禄3年(1560)には室町幕府の実力者であった三好長慶が畿内平定の本拠地として入城し、政治・文化の中心地となりました。
また、長慶はキリスト教にも寛容で城下での布教を許可し、多くの家臣がこの城で洗礼を受けています。(河内キリシタン)
長慶が城主であった全盛期には、南北約1200m、東西約500mの城域に、大小約70の郭(防御するための場所)が築かれていたとされ、全国でも有数の山城といえます。
しかし、長慶も入城の4年後には亡くなり、天正4年(1576)頃には、織田信長の勢力によって廃城になりました。
  平成22年2月 大東市教育委員会



展望台を兼ねた休憩所。

つづく。



2月5日(月)17:14 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理


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