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近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


2024年3月4日を表示

反正天皇陵_大仙公園_石津神社_大鳥大社15

「どら池」と呼ばれている池。


南方向へ歩く。
画像左はシダレザクラだろう。



ほとんど人を見ない。
閑散としている。
この日は12月28日で年末のせわしない時期にウロウロする人は少ない―笑。



旗塚古墳方面へ向かう。


大仙公園案内図。
この地図は上が東を示している。
この後、西方向へ歩き、履中天皇陵古墳へ向かう。

つづく。



3月4日(月)06:22 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

反正天皇陵_大仙公園_石津神社_大鳥大社14

東屋の右に見える建造物は「緑の鐘」と呼ばれている。


こちらはカフェテラス。
冬なので、お客さんの姿はほとんど見なかった。



その向いが多機能トイレ。


東屋に戻ってゆっくりと昼食。(12:18→13:13)


食後、さきほど撮影したものの逆光となっていた平和塔を再び撮影。

つづく。



3月4日(月)06:19 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

反正天皇陵_大仙公園_石津神社_大鳥大社13

横断した府道197号線御陵通りを振り返って撮影。
朝日寺と記された古寺が交差点の角にあったが、中には入れなかった。



大仙公園案内図。
この地図は上が西を指している。

この後、公園内で昼食。
公園を横断し、履中天皇陵古墳方面へ向かう。
(地図の左上)



撮影した画像は逆光となっている。
この塔は「平和塔」となっていた。



平和塔へ立ち寄ってみる。
“礼拝堂”と記されており、平和を祈願するものと思われる。



礼拝堂に入ることは出来なかった。

つづく。



3月4日(月)06:16 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

反正天皇陵_大仙公園_石津神社_大鳥大社12

府道197号線御陵通りに突き当たる。
仁徳天皇陵古墳はここを左折するがコースは直進。



府道を横断して、この先の大仙公園で昼食となる。
時間は11時50分。



「歴史街道 熊野へつづくみち」の道標。


「狐山古墳」と刻まれている。


狐山古墳

時代: 5世紀後半
古墳の規模: 墳丘径30m、墳丘高5m
古墳の形: 円墳

狐山古墳は仁徳天皇陵古墳の南西隅近くにある円墳です。
発掘調査の結果、周囲には幅5mほどの濠が巡っていたことがわかりました。
濠からは墳丘から転落してきた葺石や埴輪、須恵器などが出土しました。
濠底からは中世の土器である瓦器が出土したことから、中世には濠に溜まった土砂がたびたび浚えられていたようです。
仁徳天皇陵古墳より、やや遅れて完成しますが、造られた位置から仁徳天皇陵古墳と関係のある可能性があります。

それにしても、何故“狐山”古墳と呼ばれているのだろうか、狐の巣穴があったからかも―笑。

つづく。



3月4日(月)06:12 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

反正天皇陵_大仙公園_石津神社_大鳥大社11

この辺り、公園のように整備されている。
近隣住民のお散歩コースとなっているような雰囲気。



「府立大阪女子大学大仙学舎跡」の碑が立っていた。
1949年開学。2005年大阪府立大学に統合された。
【参考】
大阪女子大学



進行方向右側に石碑のようなものと説明板らしきが見えた。


「銅亀山古墳」と刻まれている。


銅亀山古墳

時代: 5世紀中頃
古墳の規模: 一辺26m以上、高さ5.4m
古墳の形: 方墳

銅亀山古墳は、仁徳天皇陵古墳の前方部の西側、外濠に沿って造られ、仁徳天皇陵古墳と関わりのある古墳(陪家)と考えられます。
墳丘は2段に築かれ、百舌鳥古墳群では数少ない方墳の一つです。
発掘調査では、墳丘の東側で濠が巡ることを確認し、円筒埴輪が出土しました。
南側は濠が巡らないことが判明したため、単純な方墳ではなく前方部や造り出しがつく可能性があります。
陪家: 大型古墳の周囲に築かれた中小の古墳

つづく。



3月4日(月)06:08 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理


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