山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


2015年12月を表示

山陰道(丹波口駅_亀岡駅)32

兒子神社(ちごじんじゃ)の説明板。【一部割愛】

塚原宮田にあり、祭神は兒子大国御魂神を祀る。聖徳太子の幼児の像が祀られてあるので、兒子神社と呼ばれていると云われている。寛文十一年に祭祀境内地七反五畝十歩、境内に四社の末社があり、一説には茨田神社址であるとも云われているが、大枝の地が宇波多と云われているところからきたものと思われる。【一部割愛】 明治六年、村社に公定される。  

京都寺社案内*児子(兒子)神社



境内に植えられたモミジの紅葉。


こちらのモミジは葉っぱがほとんど落ちているが、青空に映える。


クスノキの御神木、幹が幾つにも分かれており圧倒される。


兒子神社を後にする。


12月24日(木)18:40 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

山陰道(丹波口駅_亀岡駅)31

やがて奥まったところに称念寺が現れる。ここは立ち寄らず昼食予定地の兒子神社へと向う。


民家の路地裏のような狭い道を辿って、兒子神社の駐車場に到着。参道へ出る。画像は参道途中の鳥居。二の鳥居だろうか。まだ新しい。


真新しい拝殿に腰を降ろして昼食タイムとなる。画像は拝殿から歩いて来た参道方向を撮影。


昼食後、境内を歩いてみる。右奥が昼食場所の拝殿。境内は想いの外広い。


境内のモミジはこの頃が一番の見頃だったようだ。


12月24日(木)18:37 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

山陰道(丹波口駅_亀岡駅)30

やがて右側(北)に三ノ宮神社の社標と石灯籠が現れる。時間の都合で立ち寄らず。ここを昼食場所として考えていたが陰気なのでパスし、次に訪れる兒子神社(ちごじんじゃ)を予定地とした。


下狩(しもかり)川に架かる下狩橋を渡ると、左側(南)に京都市立大枝(おおえ)小学校が現れる。


大枝の集落に入って行く。山陰道に出合う直前に茅葺の民家がある。


この先、山陰道に入って右折すべきところを、茅葺の民家の手前の小道を北へ歩いた。この道は到底街道とは思えない。


ここから兒子神社まで迷走することになるが、石仏が祀ってあったりするので比較的快適に歩くことが出来た。


12月23日(水)19:39 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

山陰道(丹波口駅_亀岡駅)29

地福寺の境内からの眺め。地福寺は小高い丘のような場所に建っている。


境内で見られた石仏群。一ヶ所に集められていた。


この石仏は祠の中に祀ってあった。古い時代のものなのだろう。花崗岩に彫られている。


境内に植えてあったマユミの実。可愛らしい実が鈴なり。


地福寺を後にし、元来た道を分岐まで戻り、三ノ宮神社を目指して歩く。画像は古民家。今歩いている道は、どうも旧山陰街道ではない気がした。


12月23日(水)19:38 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

山陰道(丹波口駅_亀岡駅)28

この先も地福寺の道標が所々設置されていたので迷うことなく歩けた。竹林の中に続く舗装道路を進む。


京都市のマンホールの蓋。中央に市章。周りは「御所車」をモチーフにデザイン化したもので、職員のアイデアらしい。


道標に従って歩く。ここは左折。


タマネギの苗だろう。今が植付の適時。


地福寺に到着。画像は本堂。どうやらお寺へは裏側からアプローチしたようだが、ちゃんと道標があった。後で調べると表側からの道は非常に狭く、わかりにくいらしい。なので裏側から来て正解。地福寺の山号は天林山。西山浄土宗。

京都寺社案内*地福寺



12月23日(水)19:38 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

山陰道(丹波口駅_亀岡駅)27

墓地を右に見送り、暫く歩くと下り道となり、左に新山陰街道(府道142号線)が見えてきた。


新山陰街道に合流するすぐ前に石碑がある。「維新殉難志士墓在此丘上」と彫られていた。


そして傍らに駒札。

「樫原札の辻 三士殉難の地」
この樫原の地(元葛野郡岡村。のち川島村と合併して川岡村)は、江戸時代には交通の要衝として、本陣や旅宿が設けられていた所である。元治元年(一八六四)七月一九日早朝より始まった蛤御門(はまぐりごもん)の変では、長州藩は会津、薩摩の両藩を中心とした連合軍に敗れて、多くの兵士が捕殺された。この時、長州勢に属していた三名の兵士がこの地まで逃れてきたが、幕命によりこの辻を警備していた小浜藩兵に囲まれ、討たれて果てた。遺体は放置されていたが、村人たちによってこの丘の中腹に手厚く葬られ、墓標が建てられた。長州集義隊 楳本僊之助直政、 元下野宇都宮藩 相良頼光、 同 相良新八郎 なお、相良兄弟は、元薩摩藩と名乗ったともいわれている。京都市



新山陰街道(府道142号線)は更に道幅が広くなった新道(R9)に出合い、樫原秤谷の交差点に出た。ここから道がわからなくなったが、後で調べると、交差点を渡ってすぐ右手にパチンコ店(パチンコスーパードーム桂店)があって、その駐車場から西方向の竹藪へと登って行く仮設のような道を辿れば竹林の中の旧道に入って行けたようだ。


道路幅が広くなった新道(R9)ではなく、舗装された山陰道(府道142号線)を歩き、アイシン京都事業所前の三叉路で、地福寺の道標を見つけ、旧山陰道とみられる道に出ることが出来た。しかし、この道が旧山陰道かどうかは疑わしい。


12月22日(火)21:14 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

山陰道(丹波口駅_亀岡駅)26

祠の中に祀られた石仏たち。画像左に見える道路が新山陰街道(府道142号線)だが、このひとつ北側、画像の右側の旧道を歩いた。


これは排気口だろう。下に見える舗装道路が新山陰街道(府道142号線)。


やがて旧道は地道となり、藪っぽい竹林の中に続く。


すぐに墓地が現れた。


後で地図を見ると、旧道は墓地の中を歩くようだが、我々は墓地の中に入らず、墓地を右に見て進んだ。


12月22日(火)20:00 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

山陰道(丹波口駅_亀岡駅)25

やがて道が左にカーブした左手に鳥居が見えた。三ノ宮神社の御旅所。
その前が、三ノ宮のバス停(京都市バス・京阪京都交通共通)となっていた。バス停前に巨樹が見える。



巨樹はクスノキで御神木。


地図にあるように、旧山陰街道は右折だが、地図を見ずに私だけ→の方向(新山陰街道)に歩いてしまった。しかし、この先ですぐ合流。


三宮神社を示す石の道標を左に見て歩くと、指の形を模った道標が現れた。「秤谷道」と彫られているように見える。このあたりの住所は西京区樫原秤谷町(かたぎはらはかりだにちょう)。


右上からの旧山陰道と合流。祠が見える。


12月22日(火)19:58 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

山陰道(丹波口駅_亀岡駅)24

これは井戸ではないと思うが、どういうものかわからない。


やがて右手(北)に立派な屋敷が現れる。樫原陣屋跡(本陣)。


樫原陣屋跡(本陣)の駒札。

山陰道の樫原は、早くから宿場町として設備も整い、丹波・山陰よりの物資の集積地として賑わいを極めていました。徳川三代将軍家光公が参勤交代制をはじめますが、この陣屋は山陰道を参勤交代で往来した諸大名が宿舎とした所です。最奥の六帖は上段の間につくり、欄間・床・違棚のある書院造りの立派な建造物です。上段の間の横には隠れ間も存在します。玄関の間、六帖、八帖、六帖と四室が続き、その他、七室の併せの構えはまことに立派の一言に尽きます。諸大名が出入りした玄関間は乳門といわれています。玄関の天井板には、筆太に書かれた「高砂少将御宿」「松井伯耆守御宿」等の宿札がびっしり貼られています。大名の宿帳や関札などの多くの古文書も蔵されています。この本陣は、頼まれ本陣とも口伝され、享保4年に、当地の豪族廣田庄兵衛永張が京都所司代板倉氏の依頼により経営に従事、安政二(一八五五)年に、松尾下山田の豪族で足利直系の玉村新太郎正継が継承し、今日まで五代、大切に維持されています。伏見宿の本陣が現存しない今日、市内で唯一残る本陣建築であり、平成4年4月1日に京都市指定有形文化財となりました。



公会堂前のバス停を通過。古民家を利用した町屋カフェ「カフェ ちゃーみーちゃっと」


最近リニューアルされた格子の民家。景観にマッチしている。


12月21日(月)19:04 | トラックバック(0) | コメント(2) | ウォーキング・散策 | 管理

山陰道(丹波口駅_亀岡駅)23

小畠川の駒札。

小畠川(こばたけがわ) 公称名は、洛西西幹線用水路であるが、昔から、小畠川別名明智川と呼ばれてきた。嵐山渡月橋畔大堰川から分かれ、「京の五ツ岡」の一つ西の岡十一郷一帯の田畑を潤している。この用水路には種々の逸話が残っています。天正十(1581)年六月二日、本能寺で主君織田信長公を誅殺した明智光秀は、早々に引き上げてくる途中のこの場所で落馬された。それを村人が見て、おにぎりでも食べて少し落ちつきなさいと腰掛も用意する親切をした。明智光秀は礼を言いながら、ときに東の火事は何処であるかご存じか、当てたら望の物を与えよういわれた。村人は即座に、本能寺であると答えると、見事だ何かしてほしいものはないかといわれた。村人は、この辺の水田には水が不足だから、川を造り水を通してほしいと申し出た。光秀はただちに着工したというのである。しかし、光秀は三日後に秀吉に敗れている。この川は信長の命を受け、天正三(1575)年、丹波平定のおり、樫原を補給基地とし、老の坂から樫原・桂までの道を整備した時に、併せて溜池や灌漑用水路を築造したのです。明智川と呼んだのは光秀の領民に対する政策の善かったことの例左でしょう。



小畠川(別名明智川)の流れ。


格子の家。


なにやら見覚えのある折り畳み式の台。


「揚げ素戸ばったり床机」の説明板。

樫原は山陰街道の一番「みやこ」寄りの宿場町で、丹波丹後や方々からの物資の集積地として非常に賑わった町でした。道路から「1間」程後退した所に、母屋があり、物資の置場、往来の方々の休息に、そして景観を考えての建物で、「虫こ窓に紅がら格子」の意匠は今も数多く残って居り、殊に、この藤岡さんの家は「揚げ素戸ばったり床机」の建物で多くありましたが、現在はこの一戸のみで貴重なものです。 樫原町並み整備協議会(英)



12月21日(月)19:04 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

山陰道(丹波口駅_亀岡駅)22

古風な民家。水路がよく似合う。住所表示は西京区川島玉頭町となっていた。


こちらの民家では玄関先で野菜を売っていた。


とびっきり安いとは思えないが新鮮なのだろう。大根は葉っぱがついている。


樫原(かたぎはら)バス停前を通過し、樫原交差点で物集女(もずめ)街道を横断すると古めかしい蔵が現れる。


「郷倉」と呼ばれる建物。

西暦七〇二年(大宝二年)大宝律令制定、山背国が葛野、愛宕、乙訓、紀伊、宇治、久世、綴喜、相楽の八郡に、西暦七九四年(延暦一三年)桓武天皇は平安京に遷都山背国を山城国に改む又、一郡を岡の郷(樫原)、川島郷、桂郷、下ツ林郷等一二郷にそれぞれ年貢米等収蔵される郷倉を建立、岡郷(樫原)は山陰街道切っての物資集積地でありまた華頂、宮家の社領地で、この場所に建立、明治になり宮家より樫原に郷倉が下賜され村では年間の米、麦の集積場として大いに活用、昭和六年京都市に編入と同時に三ノ宮へ村から寄贈されました。多くさんあった方々の郷倉は今はなくこの郷倉だけになり貴重なものです。 樫原町並み整備協議会(英)



12月20日(日)19:37 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

山陰道(丹波口駅_亀岡駅)21

境内ではイチョウの黄葉が見頃。青い空に黄色が映える。西山御坊は正式には本願寺西山別院といい、本堂(江戸時代)は京都府指定文化財になっていた。境内は手入れが行き届いており、イチョウの落葉は掃き清められている。

「京都寺社案内」によると、本願寺西山別院(ほんがんじにしやまべついん)は阪急桂駅の東に位置する。山門は旧山陰道に面している。西山御坊(にしやまごぼう)、久遠寺(くおんじ)、桂御房、川島別院とも呼ばれる。西本願寺京都4別院の一つ。現在、境内に浄土真宗本願寺派僧侶を育成する得度習礼・教師教修研修道場、西山幼稚園も併設されている。浄土真宗本願寺派、本尊は阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)。



阪急京都線桂駅の大阪寄りの踏切を横断。画像は桂駅方向。


踏切を渡ってすぐ右手(北)に松尾七社之一 大宮社の鳥居(松尾大明神と書かれた扁額)と常楽寺の駒札が立っていた。時間の都合で立ち入らず。


JA京都市農協川岡支店の前に「孝子儀兵衛翁墓参道」の道標を見た。後で調べると、南方向の冷聲院に親孝行で知られた儀兵衛(1724-79)の墓があるようだ。1724年は享保九年。


古民家。最近、手入れされたようだが、人が住んでいる気配があまり感じられなかった。


12月20日(日)19:37 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

金毘羅山と翠薫山

2015年12月19日(土)は、叡山電鉄の「えいでんハイク」にH氏、Tu氏と共に参加した。
出町柳駅から小雨がぱらついていたが、鞍馬駅に到着すると本降りとなった。その後、下山するまで雨が降ったり止んだりで、結局レインウェアを脱ぐことはなかった。(私はスパッツとポンチョ)。コースは鞍馬駅から京都トレイルを歩いて薬王坂へ。静原神社を経て江文峠へ向い、金毘羅山登山口から琴平新宮社の参道石段を登って※大原三山に数えられる金毘羅山へ登った。山頂付近から尾根筋を歩いて翠黛山へミニ縦走。焼杉山分岐を経て下山は大原バス停。帰路は京都バスで出町柳駅に出た。
金毘羅山・翠黛山から大原のコースは初めて歩いたが、短いコースながら一時も気が抜けない登山となった。叡山電鉄では中級向けコースと案内していた。スタッフの話では、夏場は焼杉山まで縦走するとのことで、冬場は日が暮れるのが早いので、焼杉山には登らず焼杉山分岐で下山のコース設定となったらしい。

※大原三山とは金毘羅山・翠黛山・焼杉山の三座を云う。
一方「大原の里10名山」という設定もあるようだ。内訳は
1.水井山791m
2.梶山(大尾山)681m
3.瓢箪崩山532m
4.金毘羅山573m
5.翠黛山577m
6.焼杉山718m
7.天ヶ岳788m
8.ナッチョ(天ヶ森)813m
9.皆子山972m(京都府最高峰)
10.峰床山970mの十座。
この内、私が踏破した山は僅かに一座(1.水井山)しかなく、今回の4.金毘羅山と5.翠黛山を合わせてようやく三座となった。折を見て残りの七座も踏破したい。

コース概略
叡山電鉄・鞍馬駅_薬王坂(やっこうざか)_静原神社_江文峠(えぶみとうげ)_金毘羅山_翠黛山(すいたいさん)577m_焼杉山(やけすぎやま)分岐_寂光院前_大原バス停 距離約11km

画像はこの日歩いたGPSログを表示している。



本日の参加者は248名。


12月20日(日)10:18 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

山陰道(丹波口駅_亀岡駅)20

桂地蔵寺を後にする。店の軒下に吊るしてあった大根。“寒干し大根”にして“たくあん”を作るのだろう。軒下なら風通しがよいし雨も防げる。


五辻の広い交差点を道なりに右へ歩くと、角に道標が立っていた。


「右 西山御坊 よし峯 大原の 岩くら」「左 むかふ町 あわふ ながをか やなぎ谷」。


西山御坊を目指して右折。暫く歩くと愛宕山と彫られた常夜燈。右に少し傾いている。住所表示は西京区川島北裏町となっていた。


ほどなく西山御坊に到着。境内に入り小休止となる。


12月18日(金)19:30 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

山陰道(丹波口駅_亀岡駅)19

「中村軒」を後にする。店を出てすぐ、民家の玄関先で見つけた道標。「みち」と彫られた部分から下が黒ずんでいる。何処か他の場所に建ててあったものを、道路工事などでここへ移動したのだろう。民家の敷地内はいかにも不自然。


「桂離宮前」バス停を通過すると、道路の左下に古民家が見えた。下の道が旧街道なのかもしれない。


やがて桂川街道を横断。右手(北)に「愛宕山常夜燈」が現れる。常夜燈が建っていたのは桂地蔵寺の通用門前だった。


桂地蔵寺の寺標と地蔵寺(桂地蔵)の駒札。

※「桂地蔵・地蔵寺」京都じっくり観光のHPによると、正式名を浄土宗久遠山地蔵寺といいます。地蔵堂に安置している地蔵菩薩像は、平安時代初めに、小野篁(おののたかむら)が、一度冥土へ行った際に生身の地蔵尊を拝んだことで蘇った後、一木から六体の地蔵を彫りだしたうちのひとつという伝説があります。初めは大善寺に六体の地蔵尊が安置されていましたが、平安時代末期の保元年間(1156~59)になり、平清盛が西光法師に命じて、大善寺も含め京へ出入りする街道口の6ヶ所に分けて安置するようになり、 ここ桂に分祀されたものと伝えられています。この地蔵尊は、一木の最下部をもって刻まれたもので、世に姉井菩薩と呼ばれています。寺の起源は、南北朝時代の1339年(暦応2年)に、光厳天皇の勅許のより虎関師錬が大明国師の塔所として建立しました。また桃山時代から江戸時代への移行期の1602年(慶長7年)に、細川幽斎が再興しました。方丈の襖絵は長谷川等伯の筆で重要文化財に指定されています。地蔵堂の東の薬師堂には、石造薬師如来坐像(鎌倉初期)が安置されています。

説明文にある“京へ出入りする街道口の6ヶ所に分けて安置するようになり”の6ヶ所の一つに、先に京の古道歩きで訪れた東海道の四宮地蔵(徳林庵)がある。



桂地蔵寺の境内に入ってみる。観光客の姿は皆無。


12月18日(金)19:29 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理


(2/4ページ)
最初 1 >2< 3 4 最後