京の古道⑩唐櫃越4 |
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| 傾斜が急になってきた。
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| 「アートギャラリーKYO」。
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| 綺麗に詰まれた石垣。
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| 分岐に立つ道標が二基。 左は「左 浄住寺」。右は「→右 地蔵院」。 記銘は確認しなかったが、比較的新しいものと思われる。
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| そしてハイキングコース入口の案内板があった。
桂坂へのぬけ道とあり、距離約3.2kmは桂坂までの距離を表しているようだ。 地図で確認したが、桂坂という町名はなく、西京区御陵大枝山町、御陵峰ケ堂町、大枝北沓掛町あたりの通称なのだろう。
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8月6日(土)19:50 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理
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京の古道⑩唐櫃越3 |
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| 住所表示は「西京区山田弦馳町となっている。 “つるはぜ”と読むらしい。難解だ。
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| 正面の山が徐々に迫ってくる。
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| 分岐。交差点の名前は「山田岐れ」。 ここから先も直進するが、道路幅がこれまでと比べると狭くなる。
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| 分岐に立つ道標。「右 浄住寺」。
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| 裏面には「昭和四年一月 何某」と彫られた銘。
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8月6日(土)19:50 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理
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京の古道⑩唐櫃越2 |
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| 阪急嵐山線の踏切を横断。
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| 面白い。クルマに注意、くらいの意味だろうと思ったが・・・。 京都市学校用務研究会のにサイトによるとこれは「飛び出し坊や」という。 サイトによると、ドライバーに対し、「止まれ」の合図になっている。 それにしても、和服姿というのが、いかにも京都らしい。
自治体職員の役割と働き方の変化
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| ここにもあった。 こちらが正規。 先ほどのは、落し物の帽子をかぶせている。
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| 男の子バージョン。
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| やがて物集街道(府道29号線)山田口交差点を横断。
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8月2日(火)20:31 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理
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京の古道⑩唐櫃越1 |
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| 2016年7月14日(木)は、N氏主催の京の古道を歩くシリーズに参加した。 今回で10回目となる。(第9回は雨の為延期)
この日歩いた唐櫃越(からとごえ)は亀岡市篠町山本から京都市嵐山の西芳寺(苔寺)の南となる西京区山田に至るまでの尾根道。 天正10年(1582年)6月2日、丹波亀山城主(現亀岡市)の明智光秀は、京都本能寺に宿泊していた主君織田信長を攻め滅ぼす為、本体は山陰道、老ノ坂峠を、別動隊はこの唐櫃越を通ったとされる。
亀岡側からの山道の取り付きがわかりにくい為、逆コースとなる京都市西京区山田から亀岡市篠町を目指して歩いた。 この日は蒸し暑い一日となり、体力を消耗したので、何回も休みながらの山歩きとなった。 天蓋峠(てんがいとうげ)から北方向、保津峡を眼下に、愛宕山の雄大な眺望が楽しめ、爽やかな谷風もあって疲れも吹っ飛んだ。 ところが、みすぎ山430mから亀岡市篠町山本の如意寺の手前までは、急激なガレ沢の下りとなり、最後まで気が抜けない山歩きだった。
参加者は主催のN氏、T氏、Ki氏、M氏と私の5人。 反省会は3人で、京都駅ではお馴染みとなった駅構内の「塩小路カフェ」。
★京の古道を歩くシリーズ 全14回
【参加済】 1.2015年10月29日 東海道_小関越(三条大橋_大津) 2.2015年12月01日 山陰道(丹波口駅_亀岡駅) 3.2015年12月16日 西国街道(東寺_山崎) 4.2016年01月14日 奈良・宇治街道(追分_宇治) 5.2016年02月11日 伏見街道(三条_観月橋) 6.2016年03月10日 竹田街道_大和街道(京都駅_大久保駅) 7.2016年04月14日 大原街道(大原_今出川駅) 8.2016年05月12日 長坂越_山国街道(杉坂_北大路駅) 9.2016年06月09日 【雨で延期】粟生路_大原野 10.2016年07月14日 唐櫃越(上桂駅_馬堀駅)
【今後の参加予定】 11.2016年10月 鳥羽作り道(羅城門跡_唐人雁木旧趾) 12.2016年11月 鞍馬街道(鞍馬口上善寺_鞍馬寺門前町) 13.2016年12月 御土居一周1 14.未定 御土居一周2
コース 阪急嵐山線・上桂駅_阪急嵐山線踏切を横断_物集街道(府道29号線)山田口交差点を横断_山田岐れ交差点を直進_右 浄住寺(道標)_右 地蔵院 / 左 浄住寺(道標)・石仏・愛宕燈籠_桜谷共有墓地_丁塚(苔寺分岐)_桂坂野鳥遊園分岐_<ハイノキ坂>_山田(東海自然歩道)分岐_<リョウブ坂>_京都市街展望所(展望なし)_初日の出展望台・昼食_桂坂野鳥遊園ソヨゴ坂分岐_桧坂(道標)_山のノート_沓掛山へ約20分(道標)_桂坂野鳥遊園(リョウブ坂)分岐_あたご山参拝所_沓掛山415m_林道出合い・西山団地分岐_資材作業場跡の広場_からと越(道標)・分岐_天蓋峠・眺望地_からと越(道標)・林道分岐_みすぎ山430m_石垣跡_猪除け金網扉_如意寺前_石仏_鵜の川に架かる橋を渡る_野々神社舊跡_JR山陰本線・馬堀駅 ★反省会_京都駅構内・塩小路カフェ
画像はこの日歩いたGPSログを表示している。阪急嵐山線・上桂駅からJR山陰本線・馬堀駅まで。
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| 朝の蛙股池。 西の空は晴れていたが、東の太陽は雲に覆われていた。 この日は蒸し暑い一日となった。
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| 阪急嵐山線・上桂駅がスタート。 京都地下鉄烏丸線・四条駅で阪急京都線に乗り換え、更に桂駅で阪急嵐山線に乗り換えて上桂駅に到着。
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| 駅前からこれから歩く方向(西)を撮影。 左は上桂駅前バス停でバスを待つ人たち。 この後、阪急嵐山線の踏切を横断して西へ歩く。
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| 周辺の観光案内図。 この地図は上が西。 地蔵院と浄住寺の間の山道を進むが、地図にはその先の山道が表示されていない。
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8月2日(火)20:30 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理
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生駒山麓公園_室池園地_四條畷46 |
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| 楠木正行公御墓所参道より、四條畷商店街、四條畷神社方向を眺める。(東)
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| 御墓所を後にし、四條畷商店街を歩く。 目当ては「餃子の王将」。
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| ところが、お店はまさかの17時からの営業。 (食べログでは、11時から22時迄となっていた) 久しぶりに王将の餃子が食べられると思っていただけに残念
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| このようなわけで反省会は中止。 四條畷駅に向かうと、タイミングよく瓢箪山駅行きの近鉄バスが発車時間待ちをしていたので、私はこれに飛び乗り、新石切駅で下車。 近鉄けいはんな線で帰宅した。おしまい。
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7月10日(日)20:57 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理
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生駒山麓公園_室池園地_四條畷45 |
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| 楠木正行公御墓所、拝所。
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| 小楠公墓地
この墓地は、南朝忠臣楠木正成の長子正行公が足利尊氏の武将高師直(こうのもろなお)の大軍と戦い、戦死し葬られた所である。正平三年一月、今から六三三年前で、その後、ここに小さな石碑が建てられていた。その後、一〇〇年余りして何人かが碑の近くに二本の楠を植えたが、これがその二本合し石碑をはさみこみ、このような大木(樹齢約五五〇年)となった。今も正行たちの忠誠を永遠に称している。 我が会は、この意義ある楠を保存する。 昭和四十六年三月三十一日、大阪府天然記念樹に指定されている。 昭和五十六年十一月 畷古文化研究保存会
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| 楠の巨樹を見て驚いた。 楠は他の社寺仏閣でも多々見られるので、少々のことでは驚かないが、この楠は想像以上に大きくて存在感がある。 巨龍昇天のうねりに似た神木という表現がピッタリ。
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| 墓の中には入れないが、墓の周りを一周出来そうなので歩いてみたら、度肝を抜かれた。 得体の知れない怪物が今にも動き出しそうで気味が悪い!?
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| ご神木を別の角度から撮影。
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7月10日(日)20:57 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理
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生駒山麓公園_室池園地_四條畷44 |
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| 駅前の四條畷商店街を西へ歩く。 前方に見える鎮守の森らしきが楠木正行の墓所。
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| やがて楠木正行公御墓所に到着。 ここを訪れるのは初めて。
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| 「四條畷郷土史カルタウォーク」の駒札。
くすの木の こもれ日あびる 小楠公
樹齢五八七年。巨龍昇天のうねりに似た神木。幹の廻り十二メートル以上。石碑は七メートル五〇。明治十一年一月五日に建碑式を挙行。楠の木は、府指定天然記念物。墓地は、府指定史跡。
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| 石柱には「忠孝」と彫られている。 商店街通りから少し入っただけだが、それまでの喧騒とは打って変わり静粛としている。
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| 松の木だが、あらぬ方向に伸びている。
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7月10日(日)20:56 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理
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生駒山麓公園_室池園地_四條畷43 |
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| 権現川に二羽の野鳥の姿。 カルガモ?
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| 四條畷神社、一の鳥居。 明治廿五年十二月、奉献 大阪朝日新聞社。
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| これはサンタクロース!? ネット検索すると、「100にんのサンタクロースプロジェクト」という街おこしの企画。 四條畷市に絵本作家、谷口智則作成のサンタのオブジェを100体置いて、街を活気づけようというプロジェクト。
この店は、「Zoologique」 という名のギャラリーカフェ。 店の前、左に立つサンタは「えかきサンタ」。
好きなことをしていたら、いつの間にか地域が活性化していた。観光大使で絵本作家の谷口智則さん、大阪・四條畷「キッカケ通信」水野淳さんに聞く | greenz.jp
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| 道標を見て四條畷駅へ。 東高野街道を横断。京阪バスが走っていた。
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| 更にJR片町線(学研都市線)の踏切を横断。
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7月9日(土)20:09 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理
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生駒山麓公園_室池園地_四條畷42 |
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| 四條畷市ハイキングコース案内図。 この後、JR片町線を横断し、楠木正行(くすのきまさつら)の墓へ向かう。 この地図は上が北。 楠木正行の墓へは四條畷神社の参道を西に直進。
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| 参道から四條畷神社、河内飯盛山方向(東)を振り返って眺める。 道路の左右に歩道があって歩きやすい。
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| 四條畷市コミュニティバス、参道中バス停前を通過。
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| 豪邸。地元の名士の家なのか。 ネット検索するとお医者さんのご自宅らしい。
四條畷市 - chakuwiki
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| 権現川に架かる橋を渡る。
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7月9日(土)20:09 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理
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生駒山麓公園_室池園地_四條畷41 |
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| 四條畷神社由緒記 御祭神 贈従二位 楠木正行卿 贈正四位 楠木正時卿 贈従四位 和田賢秀卿 外 殉節将士二十四柱 鎮座地 大阪府四條畷市南野(飯盛山麓) 創立 明治天皇の思召により明治二十二年 別格官幣社に列格仰下される翌年鎮座 摂社 御妣神社 正行公御母
楠正行公は楠正成公の嫡男であり正成公の大楠公に対して小楠公と申し上げる 卿は延元元年(一三三六年)湊川へ出陣をせられる父君と桜井の駅にて訣別されたが時に御年十一歳 爾来母君に孝養を尽して臥薪嘗胆読書練武に励み報恩の至情を捧げた 正平二年(一三四七年)十二月後村上天皇に拝謁国難に殉せん事を誓い如意輪堂の扉に鏃をもって決死の和歌を遺された 翌年正月敵将高師直の軍勢八幡を発し河内に至るや正行卿一族は寡兵よくこれを迎え撃ち獅子奮迅せられたが満身に創を受け遂に殉節せられた時に御年二十二才の青年であった この正義に燃えたる小楠公の事蹟と吉野朝史の一齣は四條畷に永く留められ万古に変らぬ飯盛山は青少年の徳義昂揚を叫び老松は史蹟を語っている
この神社は創立が明治二十二年で新しい。 先の住吉平田神社の神主等が、神社創建を願い出て、明治天皇より列格仰下され、翌年御鎮座せられた。
四條畷神社
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| 境内の楠木の根元に祀られている「楠木公慰霊塔」。
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| 四條畷神社を後にする。
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| アジサイが見頃。青色で涼しげ。
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| この頃になると、小雨がぱらついてきた。 折り畳み傘をさして歩く。
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7月9日(土)20:08 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理
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生駒山麓公園_室池園地_四條畷40 |
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| 有孚顒若(ゆうふぎょうじゃく)と読むようだ。 「まことの心をもって、神霊を敬い慎み、参拝する」というほどの意味。
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| 「夏越 大祓式」。(なごしのおおはらえしき) 6月30日に執り行われる。
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| 忠孝両全。(ちゅうこうりょうぜん) 「君主への忠義と両親への孝行のどちらも果たすこと」という意味。
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桜井の別れ
楠木正成公(向かって右)死を覚悟の兵庫(湊川)出陣に当り桜井駅(三島郡島本町)において十一歳の我が子正行(向かって左)との別れに「父の死後は足利氏の天下になるだろうがどこまでも正統の天皇を御守りせよ それが父への孝行となるのだ」と諭し 天皇から賜った短刀を与え身も心も我が子に伝へて出陣された
忠 孝 両 全
忠 忠義 孝 孝行 両全 両方共に完全であること
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| 四條畷神社、拝殿。
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7月8日(金)19:51 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理
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生駒山麓公園_室池園地_四條畷39 |
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| 龍尾寺を後にして御机神社(みつくえじんじゃ)の石段前に到着したが、今回はこの神社には立ち寄らず、四條畷神社に向かった。
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| 四條畷神社への道標を見て、権現川に架かる橋を渡る。
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| 四條畷市のマンホールの蓋。
日本マンホール蓋学会のHP によると、市の木クスノキと市の花サツキのデザインの中央に小さく市章が入っている。
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| 左(東)に住吉平田神社の鳥居を見送る。 ピッカピッカの新品―笑。
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| 住宅地の中を歩いて四條畷神社石段前に到着。石段をゆっくり登る。
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7月8日(金)19:50 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理
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生駒山麓公園_室池園地_四條畷38 |
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| 四條畷市と四條畷中学校の連名の駒札。
龍尾寺で 雨乞いをする 里の人
天平の世、旱魃あって里民大いに苦しむ。雨乞いすれば大雨が降り、龍は身をさいて里人を救った。三分された尾の部分の霊を弔っている。
駒札に記されている文面は、「四條畷郷土史カルタ」と呼ばれるもの。 郷土史カルタで、住んでいるまちの名所・旧跡や歴史、伝説、風土、習慣を学び、それらを実際に見たり歩いたりして知ることをカルタウォーク(郷土散策)というそうな。
郷土史カルタ・四條畷・大東・交野(星田)
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| この日、龍尾寺に立ち寄ったのは、H氏がこのお寺の梵鐘の裏側に十字架を彫りこんであるらしいとの情報を得たから。 このあたりは隠れキリシタンの里だったという。 初耳だが、国内最古のキリシタン墓碑が見つかっており、現在、四條畷市の歴史民俗資料館に展示されている。
<河内キリシタン>墓碑発見 新たなロマン
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| H氏は梵鐘の裏側に彫られた十字架を確認する為に、わざわざ懐中電灯を持参していた。 梵鐘の裏には、確かに十字架が彫られていた。照明がなければ見られない。 手でなぞったところ、後から削ったものではなく、陽刻と呼ばれる浮き出る形に彫られていた。 画像ではわかりにくい。
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| 龍王感応伝説をイメージする龍の絵画。
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| 龍尾寺の境内。 藪蚊が現れたので、早々に立ち去った。
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7月8日(金)19:49 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理
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生駒山麓公園_室池園地_四條畷37 |
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| 元禄二(一六八九)年に当地を旅行した貝原益軒は、「飯盛の東北、龍鼻山に観音有。里民はなはだ尊信す」と記し、龍尾寺住職慶道は寛文三(一六六三)年八月二十二日付記録で「観音山の旧地は人煙遠く距るにより、現在地に移し、禅宗に転じた」と書きしるす。御机神社と相対する懸崖上に建つ龍尾寺は、桜・紅葉の名所としても著名。縁起書の語る観音山旧地は、現在地より更に五百㍍程山系へと踏み分けた地を指すが、人煙遠く距るにより、江戸初期に現在地へ転じたもの。 京都相楽郡加茂町の古刹、真言宗海住山寺の大般若波羅蜜多経六〇〇巻のうち、奥書を記す経巻の大半は、当地龍尾寺の経典を、寛治五・六・七年(一〇九〇年代)に筆写したものである。「河内国讃良郡滝尾供養了。滝尾山持経。滝尾寺の本。書写願主滝尾寺範誉」等と記してあることから見ると、平安末期には「滝尾寺」を称し、大般若経六〇〇巻を持つ寺院として、寺運隆々たるものがあったものであろう。 奈良期の寺院は人里の中に建てられるが、平安期ともなれば、修行道場として山岳寺院へ移行する。このことから、平安初期に遡る古寺院であることは確である。滝尾寺の滝が、本字の瀧→龍となって、龍尾寺を称するに至ったものであろう。瀧尾寺から龍尾寺へ転じた時に、龍王感応伝説が生まれる。一二〇〇年前の天平の昔、旱魃あって里人大いに苦しむ。行基菩薩これを憐れんで山間に立ち、法華経を唱すれば大雨沛然たり。龍王は身を裂いて里民の窮状を救ったものであろう。身は三分されて天空より落下した。住民深く感謝し、頭の所に龍光寺、胴体の所に龍間寺、尾の所に龍尾寺を建てて、その霊を弔った。前二者は大東市龍間に、後者が当市の龍尾寺となって、法灯を現在に伝える。京都の古刹・真言宗海住山寺と密接な関係にあることより見て、高野山金剛峯寺に倣い、人煙遠く距った観音山に真言宗として建立され、滝尾寺を称し、鎌倉時代に起雲山龍尾寺へ名称は定着、江戸初期に現在地へ転じた時、禅宗の曹洞宗へ改まった。 (四条畷市史第四巻より抜粋)
尚、上記の龍王感応伝説について、これと同じような縁起が、千葉県匝瑳市にある真言宗智山派の寺院、龍尾寺(りゅうびじ)にも伝わる。
龍尾寺 - Wikipedia
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| 一ヶ所に集められ丁重に祀られている石仏。
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| 境内に祀られている石仏。
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| 龍尾寺、本堂。
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| ここにも石仏が祀られていた。
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7月7日(木)20:04 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理
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生駒山麓公園_室池園地_四條畷36 |
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| 石段を登って龍尾寺へ立ち寄る。
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| 参道からの眺め。 これまで歩いてきた権現川ハイキングコースは谷筋なので眺望はまったく得られなかった。 一方、この参道のように尾根筋を登ると、眺めは頗る良い。
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| 急な石段が続く。 龍尾寺へお参りするのはこれが初めて。
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| 境内に到着。
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| 龍尾寺の伝説
【前半割愛】 そうしたらあら不思議、一天にわかにかき曇り、たちまち大粒の雨が降りそそぎ始めたのです。 恵みの雨があがって山のかなたを見晴らした里人は。頭と胴と尾の三つにちぎれて木にかかっている龍を見いだしたのでした。龍はわが身を裂いてまで民衆の苦しみを救ったのでしょうか。人々は頭の落ちたところに龍光寺(りゅうこうじ)、胴体のところに龍間寺(たつまでら)尾のところに龍尾寺(りゅうびじ)を建て、龍王の霊を弔いました。 大東市の龍間にある龍光寺と龍間寺、当市の権現滝・室池への入口、標高70メートルのところにある起雲山龍尾寺は、こんないわれを持つ古い古いお寺です。
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7月7日(木)20:03 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理
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