山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


石仏

太子道(筋違道)37

小さな川に架かる明神橋を渡って屏風の杵築神社を後にする。この石橋、橋脚が異様に長い。後の時代になって、かさ上げされたように見える。


屏風の杵築神社前に設置されていた「太子道」の道標。


「忍性(にんしょう)菩薩御誕生碑」に立ち寄る。


「忍性菩薩頌徳文」。忍性上人は鎌倉時代の真言律宗の僧。ここ大和国城下郡屏風里(現奈良県磯城郡三宅町)に生まれた。


角に地蔵堂があったので立ち寄る。


7月15日(水)19:53 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理

太子道(筋違道)36

この絵馬“おかげ踊り絵馬”が奈良県指定有形民俗文化財(昭和62年3月10日奈良県教育委員会告示 有民第12号)となっている。「奉納 慶応四歳辰九月吉祥日 屏風里氏子敬白」。


こちらの絵馬は「奉納 御神前」右横に年月が記されているが、文久二年九月吉日だろうか。


「太子接待の絵馬」。安永六丁酉九月(西暦1777年)に奉納されたもので、村人たちが聖徳太子にお菓子などを献上してもてなしている姿を描いたものだそうだ。


拝殿にて絵馬に見入る人達。こうして見ると、絵馬の大きさがよくわかる。地元の人に照明を点けて頂いたので、よく見ることが出来た。


境内の隅に置いてあった石。取り外した狛犬の台座だろう。


7月14日(火)20:30 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理

太子道(筋違道)35

吽形。


こちらは阿形。どちらも狛犬の高さが低過ぎる。元あった台座を取り外したようだ。


「屏風の清水」。


「屏風の清水」の説明板。傍らには「矢尻ノ井」の石標があった。矢尻とは、矢の先っぽの突き刺さる部分のことを言う。聖徳太子が地面に放った矢が、地下水脈を射抜いたということだろう。


この頃、向かいの白山神社で境内の整備をされていた地元の人がやって来られ、拝殿の鍵を開け、中にある貴重な絵馬を見せていただくことになった。画像はその中の一つ。「奉懸 御神前」。右横に年月が記されているようだが判読出来ず。


7月14日(火)20:27 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理

太子道(筋違道)34

万葉名「あざさ」と呼ばれる水草。残念ながら開花していない。


「あざさ」の説明板。花は早朝に開き、昼頃萎むが、朝の気温が20度以上にならないと開花しないとのこと。


「屏風 杵築(きつき)神社」の案内板。


拝殿に奉納された「おかげ踊り絵馬」(慶応四辰九月吉祥日)が県指定有形民俗文化財となっている。


拝殿。狛犬の第二台座は近年新調されたようだ。


7月14日(火)20:26 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理

太子道(筋違道)33

薬師如来。Yさんによると、左手に持つ薬壷は破損しているとのこと。
※室町後期天文二年(1533)の銘。



“川西町・三宅町式下中学校組合立 式下中学校”という名前が珍しい。尚、式下は“しきげ”と読む。


学校の前の文房具屋さん。この日は日曜日だったので、店は閉まっていたのかもしれない。


白山神社。境内の伸びすぎた樹木を伐採するなど、境内を整備されていた。


白山神社の向かいに位置する杵築(きつき)神社に立ち寄る。所在地は三宅町屏風(びょうぶ)。


7月14日(火)20:25 | トラックバック(0) | コメント(2) | 石仏 | 管理

太子道(筋違道)32

比売久波神社の参道。左手に島の山古墳の池に沿って続く並木道となっている。


式内 比売久波(ひめくわ)神社の社標と鳥居。ここで集合写真の撮影となった。


旧道を歩く。


「東口地蔵尊」。地蔵堂の中に何体かの石仏が祀られていた。


ここにも立派な祠がある。


7月13日(月)20:13 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理

太子道(筋違道)31

常夜燈。天保十五年の銘。


箕輪寺(みのわてら)跡。比売久波神社の神宮寺として、円通大師が創建された寺院だった。


一箇所に集められた石仏たち。


比売久波神社に戻り、再び歩き出す。島の山古墳の案内板。


大字唐院の概要についての説明。


7月13日(月)20:12 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理

太子道(筋違道)30

クスノキだろう。境内にて。


拝殿。


本殿。装飾の少ない簡素なもの。


狛犬。阿形。台座には天保十四年の銘。


吽形の尻尾。


7月13日(月)20:11 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理

太子道(筋違道)29

やがて前方に丘陵が見えてくる。全体が竹林に覆われており、この時は古墳には見えず。


そして右手にこの日何度目かとなる鎮守の森らしき森。


初めて鳥の山古墳を訪れる。
※Wikipediaによると、「島の山古墳(しまのやまこふん)は、奈良県川西町唐院に所在する4世紀末~5世紀初頭の前方後円墳であり、馬見古墳群の北群に属する。古墳は国の史跡、出土品は重要文化財に指定。」
【概要】川合大塚山古墳の西方約1キロの寺川左岸上の微高地に築造された。別名島根山古墳。周辺の古墳とともに三宅古墳群を形成する。 盾型の周濠を含めた長さは265メートル、幅175メートルである。東西くびれ部には造り出しがある。墳丘からは葺石と埴輪列(朝顔形円筒、家形、盾型、靫形)が検出された。また平成17年度に行われた第10次調査において、西側くびれ部から祭祀に用いられたと考えられる植物製の籠が出土した。
当古墳の位置は大和盆地の河川が合流する場にあり、交通の要所を押さえた場にあることが大塚山古墳群と共通している。また川合大塚山古墳と島の山古墳の墳形規格が同じであるという点からも、この二つの古墳は関係が深いとみられる。この古墳に関する記述は古く、江戸時代の学者である木内石亭が著した「雲根志」に「神代石」という名で、この古墳から出土した鍬形石が記されている。



鎮守の森に見えたのは比売久波(ひめくわ)神社の森。


比売久波神社の案内板。


7月13日(月)20:10 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理

太子道(筋違道)28

油掛地蔵の説明板。説明書きによると大永三年(一五二三年)の銘。大永三年は戦国時代。


本尊 石造地蔵菩薩立像 「油掛地蔵」。風下に立つと油の臭いがした。


川西町のマンホールの蓋。コスモス、ケヤキと明確に表示している。わかりやすい。
※奈良県のHPによると、「町の花「コスモス」、町の木「ケヤキ」をデザイン化したものです。中央の町章は川西町の頭文字「カ」を簡潔優美に図案化し町の豊かな発展と平和隆昌を大きく爽快に表現したものです。」



油掛地蔵を後にする。田んぼの畦道を広くしたような道をまっすぐ南へ歩く。


寺川に架かる橋を渡る。


7月12日(日)19:25 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理

太子道(筋違道)27

境内に置かれた石燈籠。


こちらは地蔵菩薩。


吐田の杵築神社を後にする。境内の一部は濠で囲まれていた。


田んぼの一角に木があり傍に地蔵堂が見える。


地蔵堂。四方から透けて見え、風通しが良い―笑。


7月12日(日)19:20 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理

太子道(筋違道)26

大和川(初瀬川)に架かる馬場尻橋を渡る。


南陽禅寺前を通過。


太陽光発電のパネル。最近、あちこちでこのような光景を目にする。


立派な石燈籠がある杵築神社(川西町吐田/はんだ)に到着。予定にはなかったようだが、せっかくなので立ち寄ることになった。


川西町教育委員会が設置した案内板。


7月12日(日)19:15 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理

太子道(筋違道)25

地蔵堂の中に祀られていた縦に長い舟形地蔵。涎掛けの下に「三界万霊」(さんがいばんれい)と彫られている。


融通念仏宗・常徳寺の寺標が見えたので立ち寄る。


お庭は小奇麗にされており、アジサイと一緒にサルスベリの花が開花し始めていた。


山号「麗晃山」と書かれた扁額。


古い瓦を地面に埋め込んであるように見えた。


7月12日(日)19:14 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理

太子道(筋違道)24

窪田の杵築神社を後にする。


ヒャクニチソウだが、見事に花をつけている。


観賞用のカボチャだろうか。


旧家が建ち並ぶ狭い道を歩く。


地蔵堂が見えたので立ち寄る。


7月11日(土)21:08 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理

太子道(筋違道)23

狛犬の台座には「弘化三丙午年九月吉日」の銘。弘化三年は西暦1846年。徳川12代将軍家慶の時代。


拝殿にあった天狗の面。


同じく「杵築宮」の扁額。


境内の木に生っていた果実が、何の木の果実か話題に。


カリンだそうだ。


7月11日(土)21:07 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理


(2/18ページ)
最初 1 >2< 3 4 5 6 7 8 9 10 最後