マックス・ローチ&クリフォード・ブラウン
マックス・ローチ&クリフォード・ブラウンを視聴してみよう。マックス・ローチ クリフォード・ブラウン The Best Of Max Roach And Clifford Brown In Concert 1.Jor-Du - Max Roach And Clifford Brown 2.I Can't Get Started - Max Roach And Clifford Brown 3.I Get A Kick Out Of You - Max Roach And Clifford Brown 4.Parisian Thoroughfare - Max Roach And Clifford Brown 5.All God's Chillun Got Rhythm - Max Roach And Clifford Brown 6.Tenderly - Max Roach And Clifford Brown 7.Sunset Eyes - Max Roach And Clifford Brown 8.Clifford's Axe - Max Roach And Clifford Brown ....................... Clifford Brown (tp) Harold Land (ts) Richie Powell (p) George Morrow (b) Max Roach (ds) Live at California Club, LA Aug. 30, 1954VIDEO
12月21日(月)16:58 | トラックバック(0) | コメント(0) | 音楽 | 管理
No.22宇太水分神社下社_八咫烏神社_平井大師山
八重咲きのサツキがチラホラと咲いている。 まだ咲き始めでこれから本格的に咲くのだろう。
車道脇にこのような看板が立っていた。 「伊那佐の里 キリシタン大名 髙山右近と大和沢城」。
澤城跡 中世の宇陀地域では、伊勢国司・北畠氏の影響のもと、秋山氏、澤氏、芳野氏が勢力をのばし、三氏は宇陀を代表する勢力となる。 秋山氏は秋山城、澤氏は澤城、芳野氏は芳野城とそれぞれが山城とその麓に居館をもっていた。 澤氏は、伊那佐山から南東にのびる標高約五二四mの山頂に築かれた山城である。 この城は、伊那佐山から南東にのびる尾根を切った二重堀切から大手口をおさえる郭群までの南北約七〇〇m、東西約四〇〇mに及ぶもので、東西両端を堀切で遮断された東西約三〇〇mの郭群が主要部分となっている。 主要部分の東西には、深い堀切があり、東端は三重の堀切となっている。 また、主要部分の中ほどにも堀切が認められ、これを境として東西に郭群をわけることができ、西郭(主郭)群は本丸、二ノ丸等、東郭(副郭)群は出丸、クラカケバと呼ばれている。 永禄二年(一五五九)の松永久秀の大和侵攻で、翌年の永禄三年には澤城も占拠され、城主の澤氏は伊賀へ逃れることになる。 そして、この城には、松永配下の高山飛騨守図書・右近親子らが入部する。 この頃の城内の様子を伝える史料としては、ポルトガルの宣教師ルイス=フロイスの「日本史」がある。 これによると、城は高い山の上にあり、遠くまで眺望でき、城内には、高山図書の妻子や約三〇〇人の兵たちが住んでいたという。 また、小さな砦には、長さ二〇m弱、幅七m余りの教会があり、中には礼拝堂・香部屋・宣教師の宿泊部屋・従者の間だどの施設があったという。 永禄七年(一五六四)には、高山右近をはじめ、多くの人々がこの教会で洗礼を受けている。 永禄十一年(一五六八)には、再び澤氏が城主となるが、天正十三年(一五八五)までに廃城となったと推定される。 大和宇陀高山右近の会
高山右近碑(右)と少年右近像(左)。
有名なキリシタン大名であり、利休七哲の一人に数えられた高山右近が、永禄七(一五六四)年十二月の頃、父ダリヨ飛騨守図書の感化により、「ジュスト」すなわち「正義」の教名をもって洗礼を受け、少年時代を過した大和沢城は、この碑の後方約一キロにそびえる沢山の頂にあったことが、当時西欧え送られたイエズス会の宣教師たちの報告書により知られている。 城主たる右近の父は、まれに見る優雅にして信義深き名将と言われ、右近もまた正義のためには迫害に屈せず身命を惜しまず、その生涯を堅忍不抜の精神をもって貫いた 日本人の亀鑑と称せ得よう。 右近は高槻次いで明石の領主となり 慶長年間その堅信の故に マニラに流され遂に彼の地で昇天するに至った。 ここに高山右近とその父を讃え 郷土の異色ある文化史蹟として沢城址を顕彰する。 昭和四十五年春 榛原町 高山右近顕彰会 つづく。
12月21日(月)06:13 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
No.21宇太水分神社下社_八咫烏神社_平井大師山
「子安地蔵尊」の隣に建つ宝篋印塔。 珍しく上部がほとんど損傷していない。
ライトアップにより「嘉永七甲寅・・」の文字が浮かび上がった。Wikipedia によると、 嘉永七年は1854年。日米和親条約締結。 安政伊賀地震、安政東海地震、安政南海地震は嘉永期の地震で本来「嘉永の大地震」であるが、これらの地震や黒船来航、内裏炎上などの災異が多発したことにより同年中に安政へ改元されたため、嘉永7年を安政元年と解釈し「安政」を冠して呼ばれる。
昼食を終え13時に常楽寺・山路集落センターを出発。 来た道を戻り、途中左折して榛原大貝方面へ向う。
道標。 「←伊那佐山 / 沢城址→」。 沢城址方面へ。
車道に出合い、これを左折。(南東) 「右近の碑→」へ向う。 つづく。
12月21日(月)06:09 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
No.20宇太水分神社下社_八咫烏神社_平井大師山
地蔵菩薩だが半跏像に見える。 地蔵菩薩半跏像は頻繁に見ることはない。
常夜燈の中台に「大日如来」と彫られており、このことから後の建物が大日堂とみられた。 建物は中を覗くことが出来ず。
ライトアップにより鮮明に見えた。 馬に乗っている像だろうか。 上部は動物に見えるが、下部の曲線は何を表現しているのかわからない。
これも不明。 左は鳥の目と嘴に見えたりもする。
「一」だろうか、単なる模様とは思えないが・・。 竿の部分に「嘉永」と彫られている。 つづく。
12月21日(月)06:04 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理