太子道(筋違道)11 |
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| 行政区は斑鳩町から安堵町東安堵に変わる。これはかなりの巨樹だが、由緒など不明。残念ながら木の名前もわからなかった。
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| ガクアジサイ。民家の庭先で。
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| こんなところを歩く。下見をしなければ到底歩けない道。
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| やがて前方に寺院が現れる。
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| 足元を見ると安堵町の消化栓の蓋。右上のマークは安堵町の“安”をデザインしている町章。
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7月8日(水)20:06 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理
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太子道(筋違道)10 |
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| 富雄川に架かる「新業平橋」を渡る。
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| 「業平道」の説明板。
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| 新業平橋の橋上から富雄川の下流方向(南西)を望む。
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| 青空とヒマワリ。天気予報の通り、お昼前頃からすっかり天気は回復した。
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| JR関西線の踏切を横断。正面に見える山は二上山。この方向からは雌岳は雄岳の後に隠れて山の姿は一つにしか見えない。
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7月8日(水)19:58 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理
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太子道(筋違道)9 |
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| 白色のムクゲ。
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| 上宮遺跡公園を後にする。公園の隅っこに歌碑があった。
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| 會津八一(あいづやいち)の歌碑。 ※斑鳩大事典によると、「いかるがの さとのをとめは よもすがら きぬはたおれり あきちかみかも」。 読み:いかるがの里の乙女は夜もすがら衣機織れり秋近みかも。 歌意:斑鳩里の娘たちは夜が更けるまではた織をしている。秋も近いことだ。1908(明治41)年28歳の田舎の中学の英語の教師八一は初めて奈良を訪れます。法隆寺は今日のようなにぎわいはなく、廃仏毀釈の影響もあり訪れる人も少なく閑散とした村の中にあった。夢殿に近い宿屋に泊まった夜、村を散策する八一は機織の音に心を打たれます。甘酸っぱい青春の思いと古代への憧憬が若い乙女を通して歌い上げています。
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| 少しだけ田んぼの畦道を歩く。
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| 畑に吊るされたカラスの死骸。これを見てカラスは近づかないのだろう。どのような方法でカラスを捕獲したのか、知りたいものだ。
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7月8日(水)19:54 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理
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太子道(筋違道)8 |
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| 付近の案内図。この後、案内図にある上宮(かみや)遺跡公園に立ち寄る。
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| 一箇所に集められ、丁寧に祀られている。まだ新しい。
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| カボチャかと思ったが少し違うようだ。マクワウリ(まっか)かもしれない。
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| 上宮遺跡公園に到着。トイレ休憩となる。
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| 上宮遺跡の説明板。 ※法隆寺iセンターのHPによると、「この上宮遺跡は、平成3年のふるさと創世事業の一環として公園建設された際に確認された遺跡。奈良時代の宮殿クラスの掘立柱建物跡(官衙的な建物跡)、平城宮と同文様瓦のほか井戸跡も確認された。特に瓦は、平城宮でつかわれた瓦と同じ版傷(版は木なので乾燥したりつぶれたりして傷が出来るが、同じ傷ということは、同じ窯で焼いているということになる)をもつものが出土した。そのようなことから、『続日本紀』の称徳天皇が行幸した際に利用されたとされる行宮の飽波宮と考えられるのではないかといわれている。公園自体は「歴史・緑・水」をテーマに、地下遺構の保存に配慮する形で建設された。」
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7月7日(火)20:36 | トラックバック(0) | コメント(2) | 石仏 | 管理
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太子道(筋違道)7 |
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| 阿波神社を後にする。
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| クルマ一台がギリギリ通れそうな狭い道。
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| 妙覚寺前を通過。
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| 石作りの郵便受けが目を引く。
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| 成福寺跡に到着。金網のフェンスが張り巡らされており、境内への立入は出来ない。画像は「太子道」と彫られた道標(石碑)。
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7月7日(火)20:35 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理
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太子道(筋違道)6 |
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| 素盞嗚神社を後にする。神社の周りには旧家が見られ道は狭い。
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| 東へ2分ほど歩くと阿波(あわ)神社に到着。
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| 涎掛けを外した阿形。涎掛けがしてあった部分は黒ずんでいない。
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| 足先や渦巻きも精巧に彫られている。
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| こちらは吽形。顔に地衣類が付着している。
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7月7日(火)20:35 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理
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太子道(筋違道)5 |
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| 何やらSさんが石灯籠の後に向かう。その後を追うF氏。
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| 盃状穴(はいじょうけつ)。この石灯籠だけに見られた。他の石灯籠には確認出来ず。
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| この巨樹はケヤキに見えるが違っているかもしれない。
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| 社殿は奈良県指定文化財になっている。
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| 素盞嗚神社のご由緒。 ※境内の案内より 重要文化財 興留 素盞嗚神社 この社の主神は素盞嗚命(すさのおのみこと)を祀られ創紀由緒は不詳であるが「興留」地名の起こりとされる天智天皇(六七〇年頃) の頃の貴人・興間人王子(おきまびとのおうじ=後の天武天皇)の宮殿内(興留五丁目一・二・四付近)に祀られていた神々を遷座されて旧指定村社となっていたのが現在の神社と伝えられています。 社殿は春日造一間社にして桧皮葺・向背付朱塗で様式上室町末期と推定され中世社殿の著例として昭和四十四年三月奈良県指定文化財に認定されています。 尚 当神社には貴重なる文化財として語れるものがございます。 一、石燈籠 本殿右側の三社前に建つ 貞享二年(一六八五年五代将軍綱吉が生類憐みの令発布) 壱基 貞享三年(一六八六年) 壱基 二、獅子・狛犬 横に広い顔・奥に引込んだ目・大きく深い彫りの巻毛・流れ毛は獅子(阿形)は前へ靡き、狛犬(吽形)は後ろへ靡く、力強く躍動的な姿体である。 獅子台座正面の「奉」の右払いの先端は十四糎もの深い彫りである。 裏面には「作師照信 花押」とあり、狛犬、台座の「献」も深いものである。 裏面には「安政四年丁巳九月日」(一八五七-アメリカのハリスが下田に着任した頃)が刻まれている。 作者は「村上照信」通称「丹波の佐吉」と言われ天才的技能に長じ、狛犬をはじめとし石灯籠・石仏・道標など多岐に及んでいる。 三、奉納絵馬 拝殿に沢山掲げられている中に西南戦争(一八七七~)の薩摩軍の西郷隆盛と幹部の描かれた二枚の絵馬がある。
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7月7日(火)20:34 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理
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太子道(筋違道)4 |
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| どの狛犬も同じような場所に亀裂が生じるそうだ。
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| こちらは吽形。全体の印象としては力強く躍動的。
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| よく観ると細部まで丁寧に彫ってある。
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| これは花立だろう。
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| ズラリと並んだ石灯籠。この場所に集められたのかもしれない。
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7月6日(月)20:45 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理
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太子道(筋違道)3 |
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| 鳥居に掲げられた扁額は「素盞嗚社」となっている。
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| 社殿に向かって右側に置かれた狛犬。開口の阿形(あぎょう)。
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| 台座の裏面に「作師 照信 花押」が彫られている。
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| 阿形の後姿。
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| 第二台座の正面。彫が深い。
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7月6日(月)20:45 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理
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太子道(筋違道)2 |
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| この朝顔は、元々こういった色あいなのだろうか。私的にはイマイチという気がする。悲しい色だ。
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| 斑鳩町のマンホールの蓋。 ※奈良県のHPによると、「町木「黒松」、町花「さざんか」、いかるがの里をイメージした「塔」、多くの古歌に詠まれた「竜田川」と「もみじ」を図案化している。 周囲には、お寺の金堂上層の高欄に使われている万字くずしの形体を配置している。」
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| 信号を渡って、これまで歩いて来た北から東へ向きを変る。
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| 暫く歩くと左(北)に鎮守の森らしきが見える。
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| 素盞嗚(すさのお)神社に到着。
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7月6日(月)20:44 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理
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太子道(筋違道)1 |
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| 2015年6月28日(日)は、第33回歩く・石仏の辻「太子道(筋違道/すじかいみち)」に参加した。参加者は20名程度。筋違道を目的に歩くにはこれが初めて。コースに沿って佐吉の狛犬を三体見ることが出来た。(素盞嗚神社/阿波神社/杵築神社・吐田) 天気予報では晴れだったが、午前中は曇りがちで風があったので比較的歩きやすかった。午後からは晴れたが、蒸し暑さはさほどなかった。反省会は毎度お馴染み餃子の王将・王寺店。
コース 9:23JR大和路線・法隆寺駅9:51_10:02素盞嗚(すさのお)神社・佐吉の狛犬(斑鳩町興留東/おきどめひがし)10:14_10:18阿波(あわ)神社・佐吉の狛犬10:25_10:38上宮(かみや)遺跡公園10:45_11:08善照(ぜんしょう)寺11:15_11:22広峰(ひろみね)神社11:25_11:40飽波(あくなみ)神社11:49_11:52大道教本部教会11:56_12:08安堵中央公園(昼食)12:56_13:11杵築(きつき)神社(安堵町窪田)13:21_13:28常徳寺13:29_13:39杵築神社(川西町吐田/はんだ)13:42_13:47油掛地蔵尊13:53_14:13島の山古墳_14:15比売久波(ひめくわ)神社14:35_15:03杵築神社(三宅町屏風/びょうぶ)15:12_15:17忍性菩薩御誕生碑_15:29杵築神社(三宅町伴堂/ともんどう)・佐吉の狛犬15:37_15:43融観寺前_15:52近鉄田原本線・黒田駅15:59 ★反省会 16:24餃子の王将・王寺店18:13
画像は当日歩いたコースをGPSログで表示している。法隆寺駅から黒田駅まで。
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| 集合場所のJR関西線王寺駅改札口前にて9時23分撮影。
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| 駅の北口へ降りてこの日歩くコースの概略を聞いて出発。
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| 民家の庭先にて。ノウゼンカズラのピンク色の品種。
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| デュランタ・タカラヅカに少し似ているが、ルリマツリだろう。
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7月6日(月)20:43 | トラックバック(0) | コメント(13) | 石仏 | 管理
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京都トレイル③(北白川_ケーブル比叡)45 |
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| この商店街(出町枡形商店街)では「出町七夕夜店」が開かれる。7月11日と12日の夕方。
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| お孫さんと七夕の飾りを眺める女性。
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| 京都は奈良の「柿の葉寿司」と違って「鯖寿し」。
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| 「京の生菓子 出町ふたば」では、相変わらず長蛇の列。Sさんはこの列に並ぶので待たずに帰って下さいとのこと。
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| この後、3人は京阪・三条駅まで鴨川沿いを歩いた。おしまい。
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7月5日(日)09:26 | トラックバック(0) | コメント(2) | 山歩き | 管理
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京都トレイル③(北白川_ケーブル比叡)44 |
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| 老夫婦が営む天ぷら店の名前は「天鈴」。小さなお店。
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| こちらは「京つけもの 出町なかにし」。作家の水上勉が若い頃通ったという。
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| 私はこの店で、「すぐきの刻み漬」と「広島漬」そして、「(大根の)田舎漬」を買った。「すぐき」はクセになりそうな独特の風味で好き嫌いが分かれそう。「広島漬」は普通の味。「田舎漬」はまだ食べていない。
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| 代金を支払おうとして店の奥に入ろうとしたら、昔の魚屋さんや八百屋さんのようにつり銭カゴが目の前にぶらさがっていたのが懐かしかった。
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| 尚、「田舎漬」は冷蔵庫で保管していたら、画像のように発酵してビニール袋がパンパンになった。破裂しそうなので袋を破った。今夜(7月5日)にでも食べたい。
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7月5日(日)09:26 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理
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京都トレイル③(北白川_ケーブル比叡)43 |
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| 餃子の王将・出町店は、郊外に展開する大型店ではなく、昔ながらの商店街の近くにあって、場所は少しわかりにくい。
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| Yさんはこの店をよく知っていた。私もネットで調べた時、おやっと思った。
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| 店の入口に貼ってあった。今時、こんな店もあるものだと驚いた次第。
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| 店の中に入る。ボックス席はなく、カウンターのみ。生ビールを注文したら、生はないと云う。お店の方針だろう。瓶ビールにした。画像はご主人。リズミカルに次々に料理を作られ、これを見ているだけでも楽しく退屈しない。ご主人は機転を利かして、私達にはサービスの一品をつけてくれた。
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| 反省会は1時間程度で切り上げ、お礼を云って店を出る。昔ながらの店が並ぶ商店街を歩く。画像は老夫婦が営む店で天ぷらを買う近くに住む子供さん。
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7月4日(土)21:12 | トラックバック(0) | コメント(1) | 山歩き | 管理
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京都トレイル③(北白川_ケーブル比叡)42 |
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| 駅前の土産店で。こんにちは。ここは大原ならぬ八瀬なので大原女(おおはらめ/おはらめ)ではなく小原女(おはらめ)なのだろう。なかなかの美人さん。
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| 八瀬比叡山口駅から叡山電車に乗る。
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| 終点出町柳駅で下車。この後、餃子の王将・出町店で反省会となる。画像は高野川。
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| 川岸でカラスとネコがにらみ合いをしていた。どちらが強いのだろうか。
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| 「出町ふたば」の店の前で並んでいるお客さんたち。行列は三重になっていた。これにはビックリ。「豆餅」が有名。
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7月4日(土)21:00 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理
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