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2023年12月10日を表示

モーツァルト ピアノ協奏曲第21番 ファジル・サイ 2019

モーツァルト ピアノ協奏曲第21番 ファジル・サイ 2019を視聴してみよう。
ピアノ協奏曲第21番 (モーツァルト)
ファジル・サイ

W.A.MOZART Piano Concerto K467 in C Major, FAZIL SAY, Rostislav Krimer, East-West Chamber Orchestra
【Google翻訳】
W.A.モーツァルト ピアノ協奏曲第21番 K.467
ソリスト - ファジル・サイ
イースト=ウェスト室内管弦楽団
首席指揮者 - ロスティスラフ・クリメール
第14回ユーリ・バシュメット国際音楽祭コンサート
ベラルーシ国営テレビ ベルテレラジオカンパニーによる録音
ミンスク ベラルーシ 2019年10月


【参考:モーツァルト ピアノ協奏曲第21番】
チョ・ソンジン モーツァルト ピアノ協奏曲第21番
http://okanara6310843.btblog.jp/cm/kulSc65nE623F8938/1/
No.2モーツァルト ピアノ協奏曲第21番 ソン・ヨルム
http://okanara6310843.btblog.jp/cm/kulSc63FM60C468E8/1/
モーツァルト ピアノ協奏曲第21番 ★一部再生不可
http://okanara6310843.btblog.jp/cm/kulSc5f1R5E4292A5/1/
マリア・ジョアン・ピレシュ (ピアノ協奏曲第21番)
http://okanara6310843.btblog.jp/cm/kulSc623I602240A0/1/

【参考:ファジル・サイ】
モーツァルト ピアノ協奏曲第21番 ファジル・サイ (2017)
http://okanara6310843.btblog.jp/cm/kulSc64eN61DD3AFC/1/



12月10日(日)21:10 | トラックバック(0) | コメント(0) | 音楽 | 管理

安寧天皇陵_新沢千塚古墳群公園_ 久米寺11

宣化天皇陵を正面から撮影。
下記サイトによると、
第28代 宣化天皇

宣化天皇(せんかてんのう)、第28代天皇・・



宣化天皇
宣化天皇皇后 橘仲姫皇女 (たちばなのなかつひめみこ)
身狭桃花鳥坂上陵 (むさのつきさかのへのみささぎ)



宣化天皇陵を後にし、県道133号戸毛久米線を東に向かって歩く。
途中、鳥屋バス停前を通過。

下記、橿原市のサイトによると、鳥屋とは・・・
かしはら町名考

中世を支配した鳥屋氏

室町時代初期の応永一四(一四七)年ごろから鳥屋(とりや)の地名が度々、この地を本拠としていた鳥屋氏に関する記録として多くの古文書に登場します。
鳥屋氏は、中世を通じて橿原市南部一帯を支配した越智氏の一支族でした。
鳥屋氏が当時の地名を採って名にしたのか、逆に地名が鳥屋氏から生れたのか、いまのところ判然としません。
日本書紀の神武天皇二年二月二日条に神武天皇が大伴氏の祖・道臣(みちのおみ)の功をねぎらい、築坂邑(つきさかのむら)を宅地として与えたとあります。
この築坂邑がいまの鳥屋町の一帯と見られており、そこに宣化天皇陵に治定の身狭桃花鳥坂上(むさのつきさかのへ)陵が古くからあります。
身狭は現在の見瀬です。
古代の築坂がやがて花鳥坂と美しく呼び換えられたあと、そこから鳥屋が中世前に出てきたと考えられています。
旧鳥屋集落の東北に鳥坂神社の鎮座しているのが、このことの傍証になるかと思われています。
身狭桃花鳥坂上陵の北約五メートルに縄文時代後期の鳥屋遺跡が、昭和一九年に発見されています。
この地に早くから人の営みのあったことが分かります。



「鳥屋の交差点の南西角に築坂邑(つきさかのむら)傳稱地」の石碑が立つ。

石碑が立つあたりが、上記、「かしはら町名考」に記された場所なのだろう。
・・日本書紀の神武天皇二年二月二日条に神武天皇が・・・築坂邑(つきさかのむら)を宅地として与えたとある・・



引き続き県道133号戸毛久米線を東に向かって歩くと、左手(北)に「史跡 益田池堤」がある。

つづく。



12月10日(日)06:08 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

安寧天皇陵_新沢千塚古墳群公園_ 久米寺10

一同、昼食を済ませ出発する。
分かりにくいが、赤丸で囲んだところが昼食場所の東屋。

この後、南群エリアに点在する古墳群を見て回った。



やがて、南群エリアの南側、境界に沿って歩くようになる。
左側が古墳公園。



右側は橿原高校のグランドで、野球の練習をする生徒たちと挨拶を交わした。


この看板はここから向こう(北)が、古墳公園であることを示している。


暫く歩くと、前方に宣化天皇陵が見えてきた。

つづく。



12月10日(日)05:59 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

安寧天皇陵_新沢千塚古墳群公園_ 久米寺9

別のところでトイレを済ませ昼食場所を探す。
まだ暑いので日差しを避けたい。
すると、前方に東屋が見えたので行ってみる。



誰も使用していなかったのでここを利用することに。


国指定史跡 新沢千塚古墳群 
               昭和五一年三月三一日
               史跡指定文部省告示第四四号

新沢千塚古墳群は、貝吹山から西北にのびる丘陵上にあり、総数約六00基からなる日本を代表する群集墳である。
越智岡丘陵と呼ばれるこの丘陵は北と南に分れているため、群集墳はそれぞれを大きく北群、南群として捉えている。
この古墳群の多くは径一0mから三0mの円墳で構成されるが、前方後円墳、方墳、長方形墳を含み、その多様な古墳の存在が特色の一つとなっている。
築造の開始は四世紀後半に遡り、六世紀末頃まで二00年以上営々と造り続けられているが、多数の古墳が築かれたのは五世紀半ばから六世紀前半を中心とする時期であり、他地域の群集墳の先駆となっている。
古墳の埋葬施設は、大多数が木棺をそのまま埋める木棺直葬の形式であるが、南群にある二二一号墳など横穴式石室を有するものも確認されている。
出土遺物は内容が豊富であり、北群にある一二六号墳のように、ガラス皿と碗、青銅製熨斗、金・銀製の冠飾・耳飾・腕輪・指輪などが出土(重要文化財に指定)するなど大陸的要素の強い古墳も含まれており、大陸との関係を知る上でも貴重な古墳といえる。

 平成三一年三月

               奈良県教育委員会
               橿   原  市



昼食後、時間があったので、一人で付近の古墳群を散策。


説明板にもあった通り、総数約六00基という数に驚く。
10~15メートル程度の円墳が行けども行けども続く。

つづく。



12月10日(日)05:55 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

安寧天皇陵_新沢千塚古墳群公園_ 久米寺8

整備された道を歩く。
このような石垣は、当然、後の時代になってから築かれたのだろう。

暫く歩くが、古墳の中に入れなかった。
左側に古墳が見えるのだが、アクセス出来ない。
ルートが少ないことと、スズメバチの巣があるので通行止めになっていた。
また、南方向へ行きたいのだが、西方向に道が続いていた。
すると、右側にクリーンセンターかしはら(ゴミ処理場)が見えてきて、益々、意図しない方向へ歩いている。



ようやく古墳公園の入口に到着したようだ。


ここが入口。


この地図は上が北北東。
案内図の左下、赤四角で囲んだところが現在地。
最初に古墳公園に入ったのは赤矢印のところだった。
そこから、ここまで歩いて来たルートに青線を引いた。
また、この案内図を見て南群エリアがあることを知った。



「シルクの杜」と称する施設が建つ。
中に入ってトイレを借用しようとしたが、土足禁止だったので入館を躊躇した。

つづく。



12月10日(日)05:50 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

安寧天皇陵_新沢千塚古墳群公園_ 久米寺7

ここからは北東方向に、こんもりとした畝傍山が見えた。
この方向に大々的な古墳公園が存在することをまったく知らなかった。



いきなり「スズメバチに注意!」に少し驚く。
この注意書きがいたるところにあって、この古墳はスズメバチ繁殖のメッカ?になっているようだ。
この日、私は黒色の服を着ていたので気になった。
ハチは黒色を嫌う。(天敵が黒のツキノワグマなので本能的に攻撃する)



小さな古墳が点在している。


夫々の古墳には番号が付けられていた。


この辺りは古墳公園の隅っこの方なので、私たち以外に訪れる人の姿を見なかった。
後でわかったが、南群エリアの方が早くから整備されていたらしい。

つづく。



12月10日(日)05:40 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理


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