山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


2023年12月11日を表示

金剛山(紅葉谷本流_ダイトレ)3

画像はベンチのある越口の休憩ポイント。
国土地理院の地図を見ると、赤矢印の方向に登山道が表示されている。
以前、その登山道を辿ってみたが、途中で崩落しており通行不可だった。
尚、地図に表示されている登山道は「祈りの滝」の南側に続いている。

先程のトラロープの踏み跡を辿ると、この登山道に合流するのかもしれない。
また、ダイトレの二つ目のゲイトを過ぎた左側に東屋があって、その奥から踏み跡が続いているようだ。
東側の尾根に沿っており、途中、金鳥蚊取り線香の錆びた古い広告塔?があるという。

このルートの探索は今後のテーマとして検討したい。(一ヶ所目)
今日は予定通りダイトレ~紅葉谷を歩く。



ベンチのある越口の休憩ポイントからは、奈良盆地南部の一部が僅かに見える。


右方向に石橋があり分岐になっている。
コースは直進。



右方向は「県境尾根・東尾根・西尾根ルートの入口」であることを示している。


道なりに石橋を渡る。

つづく。



12月11日(月)06:31 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

金剛山(紅葉谷本流_ダイトレ)2

二つ目のゲイトも横から通り抜ける。


林道をひたすら登る。
結構、傾斜がある。



アキギリ(秋桐)属だろう。
アキノタムラソウに似ている。



越口の手前で左方向に踏み跡らしきとロープのような物(赤四角)が見えたので立ち寄ってみる。


何とトラロープが吊り下げられていた。
ごく最近(六ヶ月程度)、登山道を開拓?したようだ。
或いは、今まで私がこの踏み跡を知らなかったのかも。
左(東)方向の尾根に古い登山道があることは知っていた。
しかし、今歩いているダイトレへ降りるのが難しいので、今まで探索したことはない。
いずれにしても、このルートは下山方向だろう。
この先、越口で左方向は急斜面になっているから。

つづく。



12月11日(月)06:26 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

金剛山(紅葉谷本流_ダイトレ)1

2023年10月31日(火)は、週一恒例、金剛山にNa氏と登った。

久し振りに水越峠から金剛山に登った。
水越峠バス停横の駐車スペースを利用。
登りは紅葉谷本流、下山はダイトレを歩いた。

この日の目当ては紅葉谷(モミジダニ)の黄葉だった。
当初、紅葉谷道を歩くつもりだったが、黄葉にはまだ少し早く、天気もイマイチでお日様が照らなければ日光不足。
その為、紅葉谷道は止めて、時間が短縮出来る紅葉谷本流を遡上した。

下山のダイトレはノーマルなルートではなく、一部の区間、新しく造られた林業の作業道を歩いたので、云わば“変則ルート”。
これは登山道が崩れて歩き難い、旧パノラマ台を回避する為。
尚、林業の作業は現在行われていない。

久し振りにダイトレ、紅葉谷本流を歩いたことで、新しく登山道が開拓?されていたことを発見した。
しかも、三箇所もあったから驚き。

画像はこの日歩いたGPSログを表示。
周回ルートの左は紅葉谷本流、右がダイトレ。(変則ルート)



クルマは水越峠バス停横の駐車スペースを利用。
8台程度駐車が可能。



林道(旧R309)を水越峠に向かって歩く。


コヨメナ(小嫁菜)だろう。
これとよく似た草花にノコンギク、イナカギク、シラヤマギクなどがあって、正直なところよくわからない―笑。



ダイトレ、金剛山方面へは、ゲイト横から通り抜ける。

つづく。



12月11日(月)06:22 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

安寧天皇陵_新沢千塚古墳群公園_ 久米寺13/13

久し振りに久米寺の境内に入る。
画像は庚申さん。
左は庚申塔、右は青面金剛。



不動明王と、左の脇侍(わきじ)は矜羯羅(こんがら)童子。
右脇侍に制多迦(せいたか)童子を配した不動三尊。



役行者。
こちらは脇侍なし。



久米寺山門前に立つ、一際目立つ道標。
「右 おかてら た(太)ち花」と刻まれているようだ。
字体から、比較的新しいもので大正年間。



14時丁度に近鉄橿原線橿原神宮前駅にゴールした。

おしまい。



12月11日(月)06:18 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

安寧天皇陵_新沢千塚古墳群公園_ 久米寺12

「史跡 益田池の堤 附樋管
           昭和五十五年三月二十八日指定

益田池は、現在の橿原市西池尻町、久米町、鳥屋町にかけての低地につくられた潅漑用のため池である。
「性霊集」巻二所収の「大和州×田池碑銘幷序」によると、弘仁十三年(八二二)に工事に着手したと伝えられる。
益田池の堤は、貝吹山から北に派生してくる鳥坂神社の位置する尾根と、鳥屋橋のある久米大地の西南先端部とのあいだをせき止めてつくられている。
長さは約二00mである。
現存する堤は長さ約五五m、幅約三0m、高さ約八mである。
堤の断面観察によると下層はアコーズとシルトの自然堆積で、上層には土器の混入が認められる。
昭和三十六年四月の河川改修の際、川底から樋管が二ヵ所で出土した。
その位置は堤の外側で樋管は東南東の方向にのびていることが確認された。
また、昭和四十三年九月に堤の内側にある橿原市下水処理場建設の際に樋門と思われる遺構が検出された。
この遺構と先に確認された樋管とが一連のものと考えると約九0mにわたって樋管が存在していたことになる。
樋管の時期については樋門と思われる場所から土師器の皿と黒色土器の椀が出土しており、池の築造時期とほぼ一致している。
益田池の堤および樋管は平安時代以来の治水事業を考える上で重要な資料である。
     平成元年3月 奈良県教育委員会」



「益田池の堤

この堤は高取川を堰き止めて大貯水池を作るために平安時代初期に築かれたもので、北は鳥屋端北側、南は鳥坂神社までの長さがあった。
しかし河川改修等の土木工事や土取りで昔の面影が失われてきている。
堤は10cm~30cmごとにつき固め徐々に背を高くしており、途中には黒灰色の強い粘着力のある土をはさんでいる。
高さは海抜80m前後で、現在残っている堤の部分では9m~10m積み上げられていることが判っている。
また堤の幅は広いところで40mに達するのではないかと考えられる。
昭和三十七年現高取川の改修工事の時に巨大な木樋が発見され、益田池に貯水される水量を調節するための導水管が敷設されていることが明らかになった。
推定貯水量は満水時に140万t~180万tである。
なお益田池の堤は、昭和五十五年三月二十八日県指定文化財となっている。」

下記のサイトによると、
益田池

「益田池(ますだいけ、ますだのいけ)は、大和国高市郡、現・奈良県橿原市にかつて存在したため池であり、現在は堤の一部以外消滅している。
橿原ニュータウンがその跡地に建設された。
平安時代初期、弘仁13年(822年)より、高取川に堤防を築いて水の流れをせき止めて作られた巨大な灌漑用の貯水池であり、天長2年(825年)に完成した。
益田池の完成にともない、空海(宝亀5年(774年) - 承和2年(835年))が揮毫した碑文「大和州益田池碑銘幷序」によれば、藤原緒嗣と紀末成が旱魃(かんばつ)の備えと土地の開拓のために造池を計画し、間もなく許可を得ると着工された。
その工事に人夫はもとより車や馬が数多く集まり無事竣工に至ったとされる。
これは、弘仁12年(821年)に空海が改修した讃岐国(香川県)の満濃池の技法を取り入れた成果ともいわれる。
ただし、益田池の工事に空海は直接携わってはおらず、代わりに弟子の真円らが取り組んでいる。」

“益田”という地名は、近辺では“益田岩船”が知られているが、何らかの関係があるのかもしれない。
上記、wikipediaのサイトには、建造時期・用途について、

「最も古くからある説で、弘仁13年(822年)に築造された益田池を讃えた弘法大師の書による石碑を載せるための台であったとしている。
通称の「益田岩船」もこれに由来する。」

【参考:益田池碑銘帖 2版】
益田池碑銘帖 2版 - 国立国会図書館 デジタルコレクション



益田池の堤を後にし、高取川に架かる鳥屋橋を渡る。


小堂が目に入ったので立ち寄る。


地蔵菩薩だが、残念ながら上部が欠損している。
また、風化が著しく、お顔は妖×ではないが、のっぺらぼう(野箆坊)に見えてしまう。

つづく。



12月11日(月)06:14 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理


(1/1ページ)