住吉大社_止止呂支比賣命神社_極楽寺_方違神社16 |
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| 駒札には下記の通り記されている。 「楠木 正成公 奉納 石燈籠 建武三年 丙子 三月とあり」 建武の銘は目視ではわからなかったが、相当立派な石燈籠なので、そうなんでしょう。
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| アサギマダラ(浅葱斑)が好むフジバカマ(藤袴)だろう。
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| ヒガンバナ科のネリネ・ボーデニーと呼ばれる品種かな。 ネリネ属 Nerine bowdenii
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| こちらはシコンノボタン。(紫紺野牡丹) シコンノボタン
それにしても、このお寺には、他ではあまり見かけない草花が多い。
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| このクスノキ、駒札によると、 「楠木正成公 御手植の楠」 樹齢687年ということになる。(2023年-1336=687)
つづく。
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1月5日(金)06:04 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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住吉大社_止止呂支比賣命神社_極楽寺_方違神社15 |
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| 小堂に祀られていたのは薬師如来? 風化が著しい。 相当古いものだろう。
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| 力石。 止止呂支比賣命神社にあった“さし石”と同じ。 それにしても沢山並べてある。
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| 観世音菩薩が祀られた観音堂。
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| ご真言は「おん あろりきや そわか」。
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| 六臂(ろっぴ)観世音菩薩立像。 素晴らしい!
つづく。
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1月5日(金)05:57 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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住吉大社_止止呂支比賣命神社_極楽寺_方違神社14 |
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| あべの筋(府道30号線)を横断すると、墨江から遠里小野のエリアに入る。 “遠里小野”は、“おりおの”と読む。 由緒ありげな地名。
【参考】 遠里小野
単純で分かりやすい話として、遠い里にある小さな野原―笑。
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| 左に安楽寺があって、入口の隅に道標があった。 「左 阿倍野街道 / 右 八尾街道」と刻まれている。
道標が立つ場所から、元来からここに立っていたのではなく移動されたのだろう。 また、“阿倍野街道”は“熊野街道”を指しているようだ。
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| 側面にも「右 八尾街道」と刻まれていた。 その下にも、何か刻まれているが小さくて読めず。
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| 安楽寺の向いに極楽寺というお寺があった。
古風な造りで趣がある。 大きく茂った木はクスノキらしい。 寺標らしきが立つが左に少し傾いている。
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| 「毘沙門天?」と刻まれているようだ。 右上には“楠 正?”、これは“楠正成”だろう。 左にも刻まれているが不明。 “並 同?”。
つづく。
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1月5日(金)05:53 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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住吉大社_止止呂支比賣命神社_極楽寺_方違神社13 |
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| 止止呂支比賣命神社由緒 (トドロキヒメミコト)
御祭神
素戔嗚尊 稲田姫尊 止止呂支比賣命
御鎮座の年代は不詳でありますが、延喜式(西暦八百五年制定)の神社神名帳に、当神社名がみられます。 当時、境内松林の中に清らかな清水が湧く轟池にトドロキという橋が架っており、住吉大社の摂社(奥の院)として奉斎されておりました。 承久三年、後鳥羽上皇が行幸のおり、当神社境内地内に、行宮をお築てになったことより、若松神社又は若松宮と称し、氏子の方々より「若松さん」とひたしまれ氏神様として崇め奉られております。 現在の氏子区域は墨江、清水丘、遠里小野、安立、住之江、西住之江、浜口東、浜口西、沢之、殿辻、千躰南住吉(二-四丁目)の各町と山之内の一部です。
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| さし石。 ネット検索すると、下記のサイトに、 サシ石
「若者たちの力試し、力競べ用の石,およびその行為に対する呼称。 番持石,重軽(おもかる)石,バンブチ,ハカリ石,沖縄ではサシ石などという。 石の形は丸型か楕円型で,重さは60~70kgから200kg近く,持ち上げた人の名や重量を刻んだものもある。」
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| 止止呂支比賣命神社を後にして、来た道を熊野街道まで戻る。 この車両は南海電車の新型かも。
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| 熊野街道沿いにも、先程見た銅板を使った家屋があった。 一階の部分はリニューアルしている。 この家には、うだつ(卯建)が見られる。(赤丸印)
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| うだつから軒下に繋がる銅板の部分をズーム撮影。
つづく。
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1月5日(金)05:48 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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住吉大社_止止呂支比賣命神社_極楽寺_方違神社12 |
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| 大阪市指定文化財 大阪市教育委員会
天水分豐浦命社社号標石
この石碑は、もと住之江区の安立にあった天水分豐浦命神社(あめのみまくりのみことじんじゃ)が、平安時代の「延喜式」(えんぎしき)という書物に登場する式内社(しきないしゃ)という格式のある神社のひとつ、天水分豊浦命社(あめのみくまりとようらのみことしゃ)と考えられることを示しています。 江戸時代中期の学者、並河誠所(なびかせいしょ)は、当時すでにわからなくなっていた近畿地方の式内社の場所を研究し、式内社と考えられる神社に目印となる石碑を建てることを計画しました。 一七三六年頃に、幕府の協力をえて、誠所の弟子が大阪周辺に二〇基の石碑を建てました。 うち四基が大阪市内にあり、そのひとつがこの石碑です。 正面には「天水分豊浦命社」の社号が、向かって右側には「安立町」(あんりゅうまち)と場所が刻まれています。 台石には「管廣房(すがひろふさ)建てる」とあり、石碑を建てるための資金を出したと考えられる人物の名を記しています。 明治四〇年(一九〇七年)に天水分豊浦命社が、この止止呂支比賣命神社(とどろきひめのみことじんじゃ)に遷御(せんぎょ)されたため、石碑もこの地に移りました。
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| 黒長社
右側に見える御神木とともに、御神木でよく見かけられた蛇を黒長大神としてお祀りされている。
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| 御神木に現れた蛇様をイメージした石の彫刻。
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| 大相撲、高田川部屋の宿舎が境内にあった。 下記のサイトによると、(若松神社は止止呂支比売命神社の通称) 住吉区の地域と人々の暮らしを見守る若松神社に行ってみよう!
「元関脇の安芸乃島(あきのしま)が親方として、高田川部屋を経営していて、春になると大阪場所が行われるため、高田川部屋のお相撲さんがここを訪れる。
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| 止止呂支比売命神社拝殿。
つづく。
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1月5日(金)05:43 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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