住吉大社_止止呂支比賣命神社_極楽寺_方違神社21 |
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| 前方に見える橋が遠里小野橋。(府道30号線) 大和川を越えて堺市に向かうには、あの橋を渡らなければならない。 随分と遠回りになる。
堺市側にも、遠里小野という地名がある。 遠里小野は大和川が付け替えられる前、陸続きの一つの集落だった。 それが、宝永元年(1704)の大和川付替え工事により分断された。 大和川は人工の水路。
ここ大和川の河川敷で昼食となる。
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| 表示されている数字、“4.6km”は大和川の河口からここまでの距離。
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| 昼食場所は日があたりポカポカして暖かかった。 この後、私は上着を脱いで歩いた。 この日は11月23日で師走が近いのに異常な暖かさだった。
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| 来た道を戻って河川敷から上がる。
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| 大和川の土手に沿って歩き、遠里小野橋に向かう。
つづく。
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1月6日(土)06:57 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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住吉大社_止止呂支比賣命神社_極楽寺_方違神社20 |
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| 小堂は二つに区切られ、左に雲上地蔵尊、右に白龍大神が祀られていた。
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| お地蔵様は二体あった。 大きなお地蔵さんの涎掛けを捲ろうとしたが、不快な虫が潜んでいたので途中でやめた。
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| こちらのお地蔵さんは、ここにご一緒させてもらった様子。
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| 白龍大神は石の社に祀られている。
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| 由緒書きによると、明治の初めの堤防決壊の補修に、やむなく寺院の墓石などを用いた。 その後、放置の状態が続いたが、戦後の河川改修の際に、川底から地蔵尊像が現れた。 墓石に混じって、地蔵尊の石像も堤防補強に使われたのだろう。 川底から発掘された地蔵尊像を遷座し、白龍大神を合わせて祀ることにより、今なお埋没する無縁仏を弔い、冥福を祈るようになった。 つづく。
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1月6日(土)06:53 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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住吉大社_止止呂支比賣命神社_極楽寺_方違神社19 |
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| 農神社は明治時代に止止呂支比売命神社に合祀されたようだ。
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| 御祭神は、
蒼稲魂大神 (稲に宿る神秘な霊) 埴山姫大神 (土の神、土壌の神、肥料の神、農業神) 野推大神 (野の精霊)
文字通り“農”の神様。
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| 農神社を後にする。
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| 大和川の土手に上がる。 前方に小堂が見える。
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| 丁度、南海高野線の電車が通過した。
つづく。
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1月6日(土)06:47 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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住吉大社_止止呂支比賣命神社_極楽寺_方違神社18 |
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| レトロ調の門柱を正面から眺めてみる。 ところで、入口に野菜のようなものが植えられていたのが少し気になった。
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| 極楽寺を後にする。 先程の野菜?がここにも置かれている。
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| ここにも、あっちにも。 後でわかったが、これは菜の花。 遠里小野は菜種油発祥の地だそうだ。 遠里小野は菜種油発祥の地ってご存じですか? - 大阪市
但し、菜の花ではなく、榛(はしばみ)と呼ばれる植物油の産地。(江戸時代)
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| 農神社。 珍しい名前の神社。
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| 境内に「遠里小野編入記念碑」があった。 (大阪市に編入)
つづく。
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1月6日(土)06:43 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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住吉大社_止止呂支比賣命神社_極楽寺_方違神社17 |
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| 火袋があるので燈籠だろう。 しかし、バランスが変なので、元からあったものではない。 “四月”と刻まれた上下にも何か文字が刻まれているようだ。 そして、火袋の中に妙な形をした石が収められている。 謎解き?
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| 手水舎に文字が刻まれている。
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| 左の漢字は“漱”。 どこかで見た漢字。 夏目漱石の“漱”だった。 意味は「口をすすぐ・うがいをする」。
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| 右の漢字は、これもくずし文字なので、わかりにくい。 仮に“盥”だとしたら、「盥漱」で“かんそう”又は“うがいだらい”となる。
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| 大正八年の銘がある門柱。 照明器具も本物のレトロ。 明かりが点いた状態が見たいものだ。
つづく。
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1月6日(土)06:39 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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