山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


2024年1月6日を表示

住吉大社_止止呂支比賣命神社_極楽寺_方違神社21

前方に見える橋が遠里小野橋。(府道30号線)
大和川を越えて堺市に向かうには、あの橋を渡らなければならない。
随分と遠回りになる。

堺市側にも、遠里小野という地名がある。
遠里小野は大和川が付け替えられる前、陸続きの一つの集落だった。
それが、宝永元年(1704)の大和川付替え工事により分断された。
大和川は人工の水路。

ここ大和川の河川敷で昼食となる。



表示されている数字、“4.6km”は大和川の河口からここまでの距離。


昼食場所は日があたりポカポカして暖かかった。
この後、私は上着を脱いで歩いた。
この日は11月23日で師走が近いのに異常な暖かさだった。



来た道を戻って河川敷から上がる。


大和川の土手に沿って歩き、遠里小野橋に向かう。

つづく。



1月6日(土)06:57 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

住吉大社_止止呂支比賣命神社_極楽寺_方違神社20

小堂は二つに区切られ、左に雲上地蔵尊、右に白龍大神が祀られていた。


お地蔵様は二体あった。
大きなお地蔵さんの涎掛けを捲ろうとしたが、不快な虫が潜んでいたので途中でやめた。



こちらのお地蔵さんは、ここにご一緒させてもらった様子。


白龍大神は石の社に祀られている。


由緒書きによると、明治の初めの堤防決壊の補修に、やむなく寺院の墓石などを用いた。
その後、放置の状態が続いたが、戦後の河川改修の際に、川底から地蔵尊像が現れた。
墓石に混じって、地蔵尊の石像も堤防補強に使われたのだろう。
川底から発掘された地蔵尊像を遷座し、白龍大神を合わせて祀ることにより、今なお埋没する無縁仏を弔い、冥福を祈るようになった。
 
つづく。



1月6日(土)06:53 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

住吉大社_止止呂支比賣命神社_極楽寺_方違神社19

農神社は明治時代に止止呂支比売命神社に合祀されたようだ。


御祭神は、

蒼稲魂大神 (稲に宿る神秘な霊)
埴山姫大神 (土の神、土壌の神、肥料の神、農業神)
野推大神  (野の精霊)

文字通り“農”の神様。



農神社を後にする。


大和川の土手に上がる。
前方に小堂が見える。



丁度、南海高野線の電車が通過した。

つづく。



1月6日(土)06:47 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

住吉大社_止止呂支比賣命神社_極楽寺_方違神社18

レトロ調の門柱を正面から眺めてみる。
ところで、入口に野菜のようなものが植えられていたのが少し気になった。



極楽寺を後にする。
先程の野菜?がここにも置かれている。



ここにも、あっちにも。
後でわかったが、これは菜の花。
遠里小野は菜種油発祥の地だそうだ。
遠里小野は菜種油発祥の地ってご存じですか? - 大阪市

但し、菜の花ではなく、榛(はしばみ)と呼ばれる植物油の産地。(江戸時代)



農神社。
珍しい名前の神社。



境内に「遠里小野編入記念碑」があった。
(大阪市に編入)

つづく。



1月6日(土)06:43 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

住吉大社_止止呂支比賣命神社_極楽寺_方違神社17

火袋があるので燈籠だろう。
しかし、バランスが変なので、元からあったものではない。
“四月”と刻まれた上下にも何か文字が刻まれているようだ。
そして、火袋の中に妙な形をした石が収められている。
謎解き?



手水舎に文字が刻まれている。


左の漢字は“漱”。
どこかで見た漢字。
夏目漱石の“漱”だった。
意味は「口をすすぐ・うがいをする」。



右の漢字は、これもくずし文字なので、わかりにくい。
仮に“盥”だとしたら、「盥漱」で“かんそう”又は“うがいだらい”となる。



大正八年の銘がある門柱。
照明器具も本物のレトロ。
明かりが点いた状態が見たいものだ。

つづく。



1月6日(土)06:39 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理


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