山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


2024年1月7日を表示

住吉大社_止止呂支比賣命神社_極楽寺_方違神社26

こちらは吽形。(うんぎょう)
おかっぱ頭の女の子に見えたりする―笑。



こんなところに水準点があった。


「三國丘」と刻まれている。
この石碑は鳥井駒吉が、明治二十五年(1892)に建立。
鳥井駒吉は大阪麦酒(現在のアサヒビール)の創業者。



この日は七五三詣の家族を多く見た。


手水舎の井戸にも「三國山」と刻まれていた。

つづく。



1月7日(日)06:30 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

住吉大社_止止呂支比賣命神社_極楽寺_方違神社25

やがて熊野街道は三叉路に突き当たる。
左右(東西)に通る道が長尾街道。
そして突き当たり正面が方違(ほうちがい)神社。

三叉路を右折、南海バス方違神社前を通過すると、方違神社の入口に大きな案内板が立つ。



方違神社の鳥居を潜る。
この先、駐車場となっており、ここはクルマも通行するので注意。
クルマが次々に入って来る。



御祭神 (四座)
八十万魂神 (天神地祇)
素戔嗚尊命
三筒男大神 (住吉大神)
息気長足姫命(神功皇后)

由緒
崇神天皇の朝、物部大母呂隅宿禰をして、此地に素戔嗚命を祭らせ給ふ。
神功皇后三韓より御凱旋し給ひし時、住吉大神の御神教に依り神武天皇丹生川上御斎祷の故事に倣はせ給ひ、此神地に於いて親しく天神地祇を祭り、皇軍の方忌除を祈り、忍熊王等の賊兵を平げ給ふ際、菰の葉に植土を包み粽となして奉り、方違の祈祷をなし給ひし霊地なり。
後、応神天皇の朝、素戔嗚命、住吉大神、神功皇后を合祀し給ひ、方違宮と称せらる。
以上の如き御由緒に依り、当社は昔より方災除の神として崇敬者全国に遍く、普請、転宅、旅行等の場合、当社の神符及び粽を受け、方除祈祷の修祓を望む者多し。
  平成十二年十二月  方違神社



方違神社

方違神社の起源は古く、崇神(すじん)天皇の勅願により創建されたと伝えられています。
このあたりは、摂津・河内・和泉の三国の境に位置しているため、"三国山(みくにやま)"・"三国の衢(みくにのちまた)"・"三国丘(みくにおか)"と称されていました。
三国の境界にあるため、方角の無い聖地であると考えられ、古来より方災除けの神として参拝者が絶えませんでした。
奈良時代には、行基が布施屋を設け、旅人の休憩場所となるなど、人馬往来の中心となり、平安時代には熊野詣の通過地点でもあったため、人々は旅の安全を祈ったといわれています。
また、明治元年の京都から東京へ遷都の際には17日間の祈祷が行われています。
現在も、引越しや旅行の際に、全国から多くの方が参拝に来られています。
毎年5月31日の例大祭「粽祭(ちまきまつり)」には、悪い方位を祓うという、菰(こも)の葉で埴土(境内の土)を包んだ粽(ちまき)を奉納する神事を行っています。 【一部割愛】



狛犬。阿形(あぎょう)
“盤台”と呼ばれる部分が丸型でモダンなイメージ。
逆光だったのは一寸残念。

つづく。



1月7日(日)06:27 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

住吉大社_止止呂支比賣命神社_極楽寺_方違神社24

境王子跡

境王子は大鳥王子とともに堺市域にあったとされる熊野九十九王子社の一つです。
熊野九十九王子社とは上皇や女院の熊野詣が盛んであった平安時代中期から鎌倉時代中期にかけて、大坂から熊野三山にいたる熊野街道ぞいに設けられた熊野権現の末社のことです。
京から熊野に詣でる人々は、船で淀川を下り大坂窪津王子(現大阪市中央区石町二丁目)の辺りに上陸します。
そして陸路熊野街道(西熊野街道)を南下し、坂口、阿倍野などの王子を経て境王子へと至るのです。
熊野街道が市内をどのように通っていたのかは定かではありませんが、南下し大鳥王子、篠田王子(現和泉市)を経て、熊野三山へと向かいます。
熊野に詣でる人々は王子社で休憩して旅の疲れを癒したり、身を清めて遠く熊野を遥拝したりしたのです。
また王子は熊野街道の路程表示や駅逓の役割も果たしていました。
江戸時代中期以降、熊野詣での衰退に伴って、王子社のり大部分はさびれてしまい、社殿が失われた王子社も少なくありません。
境王子も現在ではその痕跡も留めておりませんが、『堺市史』では王子ケ飢公園付近を境王子跡に比定しています。
なお、碑の建立あたり、碑の原石は熊野三山のひとつ熊野本宮が所在する和歌山県本宮町より寄贈をうけました。
碑文は、堺美術協会会長辻川穆堂氏に揮毫していただきました。
  平成四年 堺市教育委員会



石仏が二体あるが、左は上部が欠損。
右のお地蔵さんも足元をセメントで修復しているようだ。



左は石造物を構成する一つだろう。
台石のようにも見える。



境王子跡を後にして南へ歩く。


堺市のマンホールの蓋。
下記、堺市上下水道局のサイトによると、
堺市上下水道局

日本最古の木造洋式灯台(大浜北町5丁地先)をデザインした蓋。

つづく。



1月7日(日)06:24 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

住吉大社_止止呂支比賣命神社_極楽寺_方違神社23

南海浅香山駅に到着。


駅前にあった駅周辺の地図。
この地図は上が東南東を示している。
現在地は駅の南側。



南海高野線の踏切を渡って南へ歩く。


今池町3の交差点を直進。(南)
浅香山病院を左に見て歩く。



大阪刑務所前の交差点で右折。(西)
左手、王子ケ飢公園の手前に「境王子跡」の石碑が建つ。
“堺”ではなく“境”とある。
元はこの漢字を使っていたのかもしれない。
三国の“境”ということだろう。
(摂津国・河内国・和泉国)

つづく。



1月7日(日)06:19 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

住吉大社_止止呂支比賣命神社_極楽寺_方違神社22

遠里小野橋を渡って堺市遠里小野町に入って来た。
熊野街道の旧道を引き続き歩こうとするが、工場が多く建っていて、道がわかりにくい。
また、南海電車の線路が邪魔をして思うように歩けない。



ここは南海高野線浅香山駅を目印にして歩く。
浅香山駅の南側の踏切を渡るしかなかったようだ。



浅香山駅の手前、不思議地蔵尊と記された地蔵堂がある。


観音扉を開けてみる。


不思議地蔵尊縁起(由来)

昭和の初め遠里小野町在住の佐野虎市さん・・・

縁起を読んでみたが、真実なのだろう、それにしても不思議な話。
そして、このお地蔵さんの胎内にご本尊を修めている。

つづく。



1月7日(日)06:16 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理


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