山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


2017年3月1日を表示

観音山_樫ヶ峰_岩倉山6

左手に駒札と石造物(供養塔)が現れる。

   六十六部供養塔

日本六十六ヶ国の霊場に法華経を収める目的をもって諸国を遍歴する行脚僧のことを六十六部という。そけら行脚僧が、全国行脚の途次、このあたりに庵を建て、大師詣でのお遍路さんや修業僧などを善導したが、後世にそれら諸僧の徳を偲び供養塔が建てられた。神戸市上ヶ原浄水場の創設は大正九年であるが、昭和三十九年工業用水道の建設に際しその整地を始めたころ、この石塔も雑石とともに捨てられたが、以後、工事人などの病気や怪我が続出、驚いて元の場所に戻し、また粗末に扱った古墳ともども鄭重に供養した結果、その凶事も止み、それから工事が順調に進んだと今もなお関係者の悟り草になっている。

      甲東文化財保存会



柵がしてあったので、供養塔に近づくことが叶わなかった。


「学校法人 関西学院 第4フィールド」前を通過。


   大師本堂へ九丁の町石

心ない人の仕打ちで無残な姿となってしまった町石である。碑面の梵字「バ」で水天(密教では西方の守護神)の種子である。五輪(地水火風空)の塔の場合は風に該当する悉曇(梵字の字母)である。このあたりは昔、仏性原といい寛保元年(1741)から十五年間、大師堂のあったところとされている。しかし、今は開発されその面影はなく、わずかに六十六部石塔が残っているだけである。

     甲東文化財保存会



“心ない人の仕打ちで無残な姿”とあるのは、丁石が折れたこと、更に、その片割れが、見当たらないことを指しているのかもしれない。


3月1日(水)20:33 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

観音山_樫ヶ峰_岩倉山5

三叉路。「ゆりのガーデン」方向へ右折する。
Wikipediaに記載されていた「ゆりの会」の関連と思われる。



甲山大師へ十一丁の町石と説明板。

関西の名刹 甲山神呪寺へ寄進された町石群中十一番目の標石である。頭に戴く梵字の「ダ」は果た していずれの釈尊の種子であろうか。これら町石は十三基たしかにあった。しかし、ここ周辺でも十 、十二町、二基が心ない者のために持ち去られたかそのあとかたもない。
       甲東文化財保存会



右に「甲山調整池」の施設。


そして左には「上ヶ原浄水場」。


これらの施設を左右に見ながら西方向へ歩く。


3月1日(水)20:30 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

観音山_樫ヶ峰_岩倉山4

橋の上から歩いて来た方向を振り返る。

後続の人たちが続々と歩いて来る。



橋を渡ってすぐ階段を登る。


突き当たりを右折し、道なりに歩くと「仁川百合野町地区 地すべり資料館」が現れる。
“自動観測システム監査棟”と表示されている。



仁川百合野町地すべり資 料館 - Wikipedia によると、1995年1月17日早朝の兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)によって 、西宮市甲山の阪神水道企業団甲山事業所北斜面で、幅約100m、長さ約100m、深さ15m、移動土塊 約10万m3という大規模な地すべりが発生した。この地すべりで斜面東側に位置する仁川百合野町 と仁川6丁目の家屋13戸が押しつぶされ、住民34名が死亡した。災害から2年後の1997年11月18日 、被害状況と土砂災害の恐ろしさ、災害対策の仕組みなどを学べる施設として、災害現場の一角 に本資料館が開館した。資料館は2階建てで、ビデオ映像・パネル展示・ジオラマ模型などを備え る。資料館の近くには慰霊碑が建つ。資料館周辺にはアジサイやスイセンなどの花々が植えられ 、地すべりが発生した斜面には地域住民団体「ゆりの会」が2004年からシバザクラを植えており 、現在では6000株を超える花の名所となっている。震災の発生時期には、2002年から毎年「ゆり の会」が地すべり資料館で追悼コンサートを催してきたが、主催メンバーや遺族らの高齢化によ り、10回目となる2011年で幕を下ろした。


「地すべり資料館」を右に見送って道なりに進む。


3月1日(水)20:26 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理


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