山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


2024年3月を表示

沼山古墳_益田岩船_牽牛子塚古墳_乾城古墳20

歩道のない車道を西方向へ歩く。

暫く歩くと行政区が明日香村から高取町に変わる。



やがて、飛鳥病院の手前、右側に古墳が見えてくる。


分岐にある道標と石仏を祀った祠。

道標は「←鑵子塚古墳 / 貝吹山城跡→」と「←乾城古墳」。



この日は、乾城(カンジョ)古墳に立ち寄った。
シートが被せられており、整備中なのかもしれない。



乾城(カンジョ)古墳の石室。

つづく。



3月11日(月)06:34 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

沼山古墳_益田岩船_牽牛子塚古墳_乾城古墳19

ライトアップによる撮影。
お地蔵さんは微笑んでいるように見える。



「右 石(いわ)ふね(祢) 妙・・」。

“妙・・”は、“妙法寺”とみられる。



「左 御所 金こ(古)う・・」。

“金こ(古)う・・”は、“金こ(古)う山・・”だろう。



左「真弓鑵子塚古墳」分岐だが、私有地に付き、見学は不可となっていた。


イノシシほか獣害対策のフェンスを開閉する。

つづく。



3月11日(月)06:31 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

沼山古墳_益田岩船_牽牛子塚古墳_乾城古墳18

牽牛子塚古墳、入口から南方向の眺め。
画像中央に見える建物は介護老人福祉施設。



牽牛子塚古墳を後にし、南方向へ下る。

この先、分岐。
コースは“く”の字形に曲がる。



「カンス塚→」(真弓鑵子塚古墳)方面へ向かう。


何かを眺めているお二人。


分岐に道標を兼ねた石仏があった。

つづく。



3月11日(月)06:28 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

沼山古墳_益田岩船_牽牛子塚古墳_乾城古墳17

牽牛子塚古墳 埋蔵施設名称図。


墳丘の斜面には二上山産の凝灰岩切石が施されている。

下記のサイトによると、

「《二上山凝灰岩にじょうざんぎょうかいがん》
二上山付近で産出されるほとんどの凝灰岩は溶結疑灰岩(ようけつ)で、色が白いことから二上山白石と呼ばれています。
古墳時代後期に近畿で家形石棺が作られるとその材料として利用され、奈良県内では斑鳩町藤ノ木古墳、明日香村高松塚古墳などで、桜井市内では、赤坂天王山1号墳の刳抜式家形石棺などに使われています。」

【参考】
牽午子塚古墳



牽牛子塚古墳入口を正面から撮影。


柵から先は立入禁止。


二上山産凝灰岩の巨石を刺り抜いた埋葬施設(墓室)。

つづく。



3月11日(月)06:24 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

沼山古墳_益田岩船_牽牛子塚古墳_乾城古墳16

それにしても、ここからの景色は素晴らしい。
いつまでも眺めていたい気分。
天気が良いのも幸いしている。



やや東方向の眺め。
眼下に見えるのは、模型広場、アサガオの丘。



牽牛子塚古墳

牽牛子塚古墳は7世紀後半に造られた古墳で、丘陵の頂部に位置しています。
墳丘は三段築成の八角墳で、発掘調査の成果などから対辺長約22mに復元することができます。
現在の墳丘は、最下段部分を築造当時の大きさに復元しています。
内部には二上山産凝灰岩の巨石を刳り抜いた理葬施設(墓室)があり、石英安山岩の切石が取り囲んでいます。
基室は二室あり、それぞれ奥行き 2.08m、幅 1.18~1.2m、高さ 1.18~1.2mの大きさで、鎌倉時代に盗掘に遭いましたが、七宝飾金具、玉類の副葬品の一部や夾紵棺片(きょうちょかん)、人骨などが出土しています。
     明日香村



出土遺物 (七宝飾金具)。


牽牛子塚古墳 墳丘(北西から)。

つづく。



3月10日(日)06:39 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

沼山古墳_益田岩船_牽牛子塚古墳_乾城古墳15

それにしても、このカタチは、一体どうなっているのか。
元からこのようなカタチだったのだろうか。
実のところ、驚くよりほかなかった。



第二次世界大戦時の要塞に見えたりする。


今、一瞬、思ったことだが、ピラミッドのミニチュアというイメージ。
しかし、次の説明書きにある“あさがお”の花びらに似ていたことが名前の由来というが、ここから眺める限り、まったく似ていないと思う。



国史跡 牽牛子塚古墳・越塚御門古墳

牽牛子塚とあさがお塚
牽牛子塚古墳は別名「あさがお塚」とも呼ばれ、江戸時代や明治時代の文献から墳丘が多角(八角)形をしており、「あさがお」の花びらに似ていたことから名前の由来になったと考えられます。

『万葉集』と越智岡
牽牛子塚古墳と越塚御門古墳の所在する越智岡(小市岡)は高取川の左岸にあり、古く万葉歌に「越智野」が泳まれ、隣接する真弓岡や今城谷には天武天皇と持統天皇の檜限大内陵や吉備姫王の檜限墓など大王(天皇)家の葬地空間が広がっています。

『日本書紀』と小市岡上陵
『日本書紀』の天智天皇六年(667年)条に斉明天皇と間人皇女を合葬した「小市岡上陵」とその陵の前に「大田皇女」が葬られたことが記されています。
間人皇女は斉明天皇の娘で孝德天皇の后、そして大田皇女は斉明天皇の孫で天智天皇の娘にあたります。
小市岡(越智岡)はまさに斉明天皇ゆかりの女性たちが眠っています。
明日香村



越智岡から望む鳥瞰図。

つづく。



3月10日(日)06:36 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

沼山古墳_益田岩船_牽牛子塚古墳_乾城古墳14

牽牛子塚古墳は右方向へ。


暫く歩くと下草が刈り取られたところに出た。

この辺りで、おそらく益田岩船へ向かうであろう人達と出会った。
クルマで来た場合、こちらにクルマを駐車することが出来る。
但し、臨時駐車場で、少し距離があるようだが。



前方に白い建造物が見えた。
リニューアルされた牽牛子塚古墳だが、先程見た益田岩船によく似ている。



まずは展望広場へ向かう。


綺麗な文字で刻まれた石碑。
側面には大正十三年三月建設の銘。

つづく。



3月10日(日)06:32 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

沼山古墳_益田岩船_牽牛子塚古墳_乾城古墳13

ようやく山中から抜け出す。
南方面の視界が得られた。
ここから歩く方向が南→東に変わる。



イノシシなど農作物に被害をもたらす動物を捕獲する仕掛けが置かれていた。


そして、登山道に設けられた獣害柵の扉を開閉する。
このあたりから行政区が橿原市から明日香村に変わる。



別名ビナンカズラ(美男葛)とも呼ばれているつる性の木。
サネカズラ



「←牽牛子塚(けんごしずか)古墳」を示す道標。

つづく。



3月10日(日)06:29 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

沼山古墳_益田岩船_牽牛子塚古墳_乾城古墳12

「益田岩船→」を示す道標。


登山道脇で、ヒラタケと見られるキノコが生えていた。
かなり大きく、食べ応えがありそう。
持ち帰られたので、Tリーダー宅の夕食のおかず!?
ヒラタケ



木漏れ日の中、山中を練り歩く。


倒木も見られたが、歩くのに支障はない。


後続の人達の姿が見えないので、ここで小休止。
列を縮める。

つづく。



3月10日(日)06:24 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

沼山古墳_益田岩船_牽牛子塚古墳_乾城古墳11

益田岩船を後にする。

画像は少し離れた距離から西面を撮影。



この後、牽牛子塚古墳を目指して山中を歩く。


「牽牛子塚古墳→」を示す道標。


落ち葉が積もって滑りやすくなっている。


周囲は竹が蔓延り、放置竹林の様相となっている。

つづく。



3月9日(土)06:19 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

沼山古墳_益田岩船_牽牛子塚古墳_乾城古墳10

巨大な“岩船”が現れる。
圧倒的!

説明書に記載があった(一辺数十センチの)「格子状の溝」がよく目立つ。(赤四角)

【説明書】
「下半部には石の整形のための仕事を推定される格子状の溝が刻まれている。
この格子状の溝は、東西側面や南側面にもみられる。」



ここにも簡単な説明書があるが、先程の内容と重複するので省略。


角度を変えて撮影。
人も一緒に写っているので、岩船の大きさがわかると思う。



頂上部には浅い溝状の切り込みと、東西に二つの方形の孔が穿たれている。
(赤四角)



危険なので、(岩の上には)登らないで下さい。
との注意書きがあるが、せっかく現地まで足を運んだのに、頂上部の孔などが見られないのは残念。

つづく。



3月9日(土)06:15 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

沼山古墳_益田岩船_牽牛子塚古墳_乾城古墳9

石船山のほぼ頂上を目当てに登る。
一部、険しいところがある。



途中、絶滅危惧種の表示があった。
イチヤクソウ(一薬草)がそれ。

イチヤクソウは低山の林中に生育。
花期は6-7月。
絶滅危惧種だけに頻繁に見られるものではない。
【参考】
イチヤクソウ



多年草(宿根草)なので、一度、見つけたら、毎年同じ時期に花が開花することになる。
また、環境にもよるが、すこしずつ株が大きくなる。



切り通しのようなところに登山道が続く。
画像は振り返って撮影。



尾根筋に乗る。

つづく。



3月9日(土)06:12 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

沼山古墳_益田岩船_牽牛子塚古墳_乾城古墳8

史跡 岩船
          昭和五十一年三月三十日指定
奈良盆地の周辺に位置する越智岡山塊の一支峯、石船山の頂上近く、標高約一三〇mの地点に所在する花崗岩の巨大な石造物で俗に益田岩船と呼ばれているものである。
その構造は、東西の長さ一一m、南北の長さ八m、高さ(北側面)四・七mの台形を呈し、頂部の平坦面から東西両側面の上半部にかけて東西の方向に、幅一・八m、深さ〇・四mの浅い溝状の切り込みがあり、その南側縁には上から約〇・一四mのところに幅〇・一三mの段が造り出されている。
溝内には中央に一・四mの間隔をおいて西よりと東よりの部分に二つの方形の孔が穿たれている。
西の孔の大きさは上口部で東西一・五m、南北一・六m、深さ一・三m、東の孔は東西一・六m、南北一・六m、深さ一・三mとほぼ同じ規模を持ち、ともに孔底の四周の壁の直下には幅、深さともに六㎝の小溝がめぐる。
溝内の東西両孔の中間部と孔の両側の平坦部はそれぞれ高さが異なり、孔の中間部に対し東側は〇・一二m、西側は〇・三六m低くなっている。
また、この三つの平坦部や東西両孔の底面は東西方向には水平であるが南北方向ではいずれも南に傾斜しており、岩船全体がやや南に傾いているものと考えられる。
岩船の側面は、全貌をあらわしている北側では上半部が平滑に仕上げられているが、下半部には石の整形のための仕事を推定される格子状の溝が刻まれている。
この格子状の溝は、東西側面や南側面にもみられる。
なおこのような格子状の刻みは、明日香村川原所在の亀石にもみとめられるものである。
この巨大な石造物については、古くから弘仁十三年この地に築造された益田池の碑の跌(台石)とする説があり、また最近では墳墓説や占星台の基礎とする説などが提起されている。
その用途や築造年代については今後の研究にまたねばならないが、いずれにしても明日香地方に分布する特異な石造物のなかでも最大の規模をもつものとして保存の必要がある。
なお、益田岩船の名称は、江戸時代の地誌類にみられるものであるが、この岩船が益田池に関連するものとの想定にもとずく呼称と思われ、現在の地名によるものではない。
 昭和六十二年三月     奈良県教育委員会



急階段だが、手摺が完備されており、ゆっくりと登る。


粋な計らいだが、ここへ戻ってこないので使わなかった。


手摺がなくなり、階段も多少登りにくくなってくる。
また、落葉で滑りやすい。

この先、右方向に踏み跡が続く。



ところが、正面に岩場があったので、少し立ち寄ってみた。
この後に見る、岩船に使われている石と同じなのか興味があったから。
もし、そうだとしたら、岩船の石は他から運ばれて来たのではなく、この付近で採石されたことになる。

つづく。



3月9日(土)06:07 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

沼山古墳_益田岩船_牽牛子塚古墳_乾城古墳7

鉄柵越しに石室の中を覗き見することが出来た。

しかしながら、下記サイトの動画を視聴した方がわかりやすい。

【参考:沼山古墳】
「沼山古墳」奈良県橿原市



沼山古墳を後にする。
来た道を途中まで引き返して右折。(北)
すると橿原ニュータウンと呼ばれる集合住宅地に出た。
ここには立派な道標が完備されており、やはり我々は裏側からアクセスしたようだ。
道標によると次の目当てである益田岩船まで0.2kmとなっていた。



白橿近隣公園トイレで小休止。
トイレはキャパの関係で、結構、時間が掛かった。

コースは車道を横断し階段を登って右折。



すると、左手に登り口がある。
入口ではウサギさんが迎えてくれる―笑。



ここが「史跡 益田岩船」への取り付き。

つづく。



3月9日(土)06:02 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

沼山古墳_益田岩船_牽牛子塚古墳_乾城古墳6

ここまで沼山古墳の道標や案内板がなく、一寸不安になる。
・・・裏道から入って来たからかも!



茂みの中に入ると、説明板らしきが立っていた。


そして、沼山古墳を示す道標があった。
道標や説明板を設置した頃から、周囲の潅木が生い茂り、遠目ではそれらが見えなくなっている。
よくあるパターン。
設置するのは有り難いが、その後のメンテがなされていないので、“用無し”になってしまっている。



沼山古墳

 昭和五十七年に公園整備に伴う発掘調査が実施されました。
径約十八m・高さ五・五mの円墳で、墳丘の中央に片袖の横穴式石室が南側に開口しています。
石室の規模は、玄室が長さ四・九五m・幅二・九五m・高さ四・二五mで、これに長さ四・五m・幅一・八m・高さ一・八mの片袖の羨道(せんどう)がとりつきます。
花崗岩の自然石を長手積にし、玄室内は高さ二mまで垂直に積み、それから上は四壁を内傾に積上げています。
そのため天井での面積は狭く二枚の天上石で覆っています。
玄門部には閉塞石(へいそくせき)が残っていました。
玄室内からは、銀製空玉・ガラス製小玉・トンボ玉・金環などの装身具、心葉形杏葉・辻金具、絞具や革帯金具、鞍金具などの馬具、鉄鏃、鎹(かすがい)、釘などの鉄製品、須恵器・土師器などの土器も出土しています。
とくに玄室中央から甕(かめ)・甑(こしき)・竈(かまど)のミニチュア炊飯具のセットが出土しています。
出土した土器から六世紀後半に築かれた古墳と推定されます。
 本古墳は、渡来系の人々が住んだ身狭(むさ、見瀬)に位置し、渡来系の東漢氏の定住していたとされる桧前地域とも隣接しているなど、真弓鑵子塚古墳、乾城古墳、与楽鑵子塚古墳などと同様に玄室平面が正方形に近く、天井が高いドーム形に石積された古墳であることから、これらの人々の墓と思われます。
  橿原市教育委員会



沼山古墳、石室開口部。

つづく。



3月8日(金)06:17 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理


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