山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


2024年1月を表示

朝護孫子寺_三室山_三室古墳_龍田大社2

ケーブル車両の中も見学出来る。
いかにも座り心地が良さそうな座席。
実際、座ってみたが心地良かった。



駅前から奈良交通バスに乗車し、信貴山バス停で下車。
信貴山バス停は、かつての東信貴ケーブルの信貴山駅舎を使用している。
旧駅舎内に掲示されていた「大根だき会(え)」のポスター。
尚、ポスターに表示はないが、奉納料千円。



このバス停から朝護孫子寺まで徒歩15分となっている。
バスの運転者は、親切にもこの先のバス停で下車した方が、お寺に近いと声を掛けてくれた。
ところが、我々は歩くのが目的でもあるので、丁寧にお礼を云って下車した。



信貴山周辺観光案内図が掲示されていた。
この地図は上が北北東を指している。
現在地は地図の真ん中右端に表示されている。

この日歩いたコースを赤線でなぞってみた。
目当ての朝護孫子寺は地図の上の方。
その後、開運橋、とっくりつり橋を渡って、南へ向かう。
赤線は地図の途中で途切れているが、車が通れない道なので、表示されていないのだろう。



早速歩き始める。

つづく。



1月8日(月)07:01 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

朝護孫子寺_三室山_三室古墳_龍田大社1

2023年11月25日(土)は、土曜会に参加した。
タイトルは「信貴山から竜田古道へ」。

コース
近鉄生駒線信貴山下駅_<バス>_信貴山バス停_朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)_とっくり橋_柏原市本堂_竜田古道の里山公園・昼食_三室山展望台_三室古墳_龍田大社_近鉄生駒線信貴山下駅

画像はこの日歩いたGPSログを表示。



近鉄生駒線信貴山下駅前にある三郷町立図書館。
館内に入ったことはないが、外観を見る限りビックリするほど立派な図書館。



駅前に展示されている、かつて存在した東信貴ケーブル(近鉄旧東信貴鋼索線)の施設配置図。


展示されているのは車両形式:コ9形と呼ばれている。


東信貴ケーブルは1922年(大正11年)開業、1983年(昭和58年)廃線。
近鉄東信貴鋼索線
信貴山のケーブルカー

つづく。



1月8日(月)06:59 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

住吉大社_止止呂支比賣命神社_極楽寺_方違神社27/27

熊野街道は方違神社の東側の道を南へ歩く。
左の奥に見える注連柱を潜ってここへ来た。



閑静な住宅街の中を歩く。
犬の散歩をするご近所の方もおられた。



右側(西)に反正天皇陵古墳がある。

反正(はんぜい)天皇陵古墳

時代: 5世紀中頃
古墳の形: 前方後円墳
古墳の規模: 墳丘長148m、後円部径76m、後円部高13m、前方部幅110m、前方部高14.8m

反正天皇陵古墳は田出井山(たでいやま)古墳とも呼ばれ、百舌鳥古墳群の北端に築かれた前方後円墳です。
造られた場所は大阪湾を望む台地の端にあたり、古墳の向きが海岸線に沿っていることから、古墳が海からよく見えるように築かれたと考えられています。
墳丘は3段に築かれており、西側のみに造り出しがあります。
かつては現在の濠の周囲に外濠が巡っていましたが、遅くとも14世紀には埋まったようです。
外濠からは埴輪や須恵器・勾玉が見つかっています。
東側には天王古墳と鈴山古墳があります。  堺市



反正天皇陵古墳の東側に続く閑静な住宅地の一角は百舌鳥古墳群周遊路となっている。
この後、ゴールの南海高野線堺東駅へ向かう。



このお宅のサボテンは特大。
アガベ・ウィンテリアーナ(agave winteriana)かもしれない。
堺東駅はこのすぐ先。

おしまい。



1月8日(月)06:54 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

住吉大社_止止呂支比賣命神社_極楽寺_方違神社26

こちらは吽形。(うんぎょう)
おかっぱ頭の女の子に見えたりする―笑。



こんなところに水準点があった。


「三國丘」と刻まれている。
この石碑は鳥井駒吉が、明治二十五年(1892)に建立。
鳥井駒吉は大阪麦酒(現在のアサヒビール)の創業者。



この日は七五三詣の家族を多く見た。


手水舎の井戸にも「三國山」と刻まれていた。

つづく。



1月7日(日)06:30 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

住吉大社_止止呂支比賣命神社_極楽寺_方違神社25

やがて熊野街道は三叉路に突き当たる。
左右(東西)に通る道が長尾街道。
そして突き当たり正面が方違(ほうちがい)神社。

三叉路を右折、南海バス方違神社前を通過すると、方違神社の入口に大きな案内板が立つ。



方違神社の鳥居を潜る。
この先、駐車場となっており、ここはクルマも通行するので注意。
クルマが次々に入って来る。



御祭神 (四座)
八十万魂神 (天神地祇)
素戔嗚尊命
三筒男大神 (住吉大神)
息気長足姫命(神功皇后)

由緒
崇神天皇の朝、物部大母呂隅宿禰をして、此地に素戔嗚命を祭らせ給ふ。
神功皇后三韓より御凱旋し給ひし時、住吉大神の御神教に依り神武天皇丹生川上御斎祷の故事に倣はせ給ひ、此神地に於いて親しく天神地祇を祭り、皇軍の方忌除を祈り、忍熊王等の賊兵を平げ給ふ際、菰の葉に植土を包み粽となして奉り、方違の祈祷をなし給ひし霊地なり。
後、応神天皇の朝、素戔嗚命、住吉大神、神功皇后を合祀し給ひ、方違宮と称せらる。
以上の如き御由緒に依り、当社は昔より方災除の神として崇敬者全国に遍く、普請、転宅、旅行等の場合、当社の神符及び粽を受け、方除祈祷の修祓を望む者多し。
  平成十二年十二月  方違神社



方違神社

方違神社の起源は古く、崇神(すじん)天皇の勅願により創建されたと伝えられています。
このあたりは、摂津・河内・和泉の三国の境に位置しているため、"三国山(みくにやま)"・"三国の衢(みくにのちまた)"・"三国丘(みくにおか)"と称されていました。
三国の境界にあるため、方角の無い聖地であると考えられ、古来より方災除けの神として参拝者が絶えませんでした。
奈良時代には、行基が布施屋を設け、旅人の休憩場所となるなど、人馬往来の中心となり、平安時代には熊野詣の通過地点でもあったため、人々は旅の安全を祈ったといわれています。
また、明治元年の京都から東京へ遷都の際には17日間の祈祷が行われています。
現在も、引越しや旅行の際に、全国から多くの方が参拝に来られています。
毎年5月31日の例大祭「粽祭(ちまきまつり)」には、悪い方位を祓うという、菰(こも)の葉で埴土(境内の土)を包んだ粽(ちまき)を奉納する神事を行っています。 【一部割愛】



狛犬。阿形(あぎょう)
“盤台”と呼ばれる部分が丸型でモダンなイメージ。
逆光だったのは一寸残念。

つづく。



1月7日(日)06:27 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

住吉大社_止止呂支比賣命神社_極楽寺_方違神社24

境王子跡

境王子は大鳥王子とともに堺市域にあったとされる熊野九十九王子社の一つです。
熊野九十九王子社とは上皇や女院の熊野詣が盛んであった平安時代中期から鎌倉時代中期にかけて、大坂から熊野三山にいたる熊野街道ぞいに設けられた熊野権現の末社のことです。
京から熊野に詣でる人々は、船で淀川を下り大坂窪津王子(現大阪市中央区石町二丁目)の辺りに上陸します。
そして陸路熊野街道(西熊野街道)を南下し、坂口、阿倍野などの王子を経て境王子へと至るのです。
熊野街道が市内をどのように通っていたのかは定かではありませんが、南下し大鳥王子、篠田王子(現和泉市)を経て、熊野三山へと向かいます。
熊野に詣でる人々は王子社で休憩して旅の疲れを癒したり、身を清めて遠く熊野を遥拝したりしたのです。
また王子は熊野街道の路程表示や駅逓の役割も果たしていました。
江戸時代中期以降、熊野詣での衰退に伴って、王子社のり大部分はさびれてしまい、社殿が失われた王子社も少なくありません。
境王子も現在ではその痕跡も留めておりませんが、『堺市史』では王子ケ飢公園付近を境王子跡に比定しています。
なお、碑の建立あたり、碑の原石は熊野三山のひとつ熊野本宮が所在する和歌山県本宮町より寄贈をうけました。
碑文は、堺美術協会会長辻川穆堂氏に揮毫していただきました。
  平成四年 堺市教育委員会



石仏が二体あるが、左は上部が欠損。
右のお地蔵さんも足元をセメントで修復しているようだ。



左は石造物を構成する一つだろう。
台石のようにも見える。



境王子跡を後にして南へ歩く。


堺市のマンホールの蓋。
下記、堺市上下水道局のサイトによると、
堺市上下水道局

日本最古の木造洋式灯台(大浜北町5丁地先)をデザインした蓋。

つづく。



1月7日(日)06:24 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

住吉大社_止止呂支比賣命神社_極楽寺_方違神社23

南海浅香山駅に到着。


駅前にあった駅周辺の地図。
この地図は上が東南東を示している。
現在地は駅の南側。



南海高野線の踏切を渡って南へ歩く。


今池町3の交差点を直進。(南)
浅香山病院を左に見て歩く。



大阪刑務所前の交差点で右折。(西)
左手、王子ケ飢公園の手前に「境王子跡」の石碑が建つ。
“堺”ではなく“境”とある。
元はこの漢字を使っていたのかもしれない。
三国の“境”ということだろう。
(摂津国・河内国・和泉国)

つづく。



1月7日(日)06:19 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

住吉大社_止止呂支比賣命神社_極楽寺_方違神社22

遠里小野橋を渡って堺市遠里小野町に入って来た。
熊野街道の旧道を引き続き歩こうとするが、工場が多く建っていて、道がわかりにくい。
また、南海電車の線路が邪魔をして思うように歩けない。



ここは南海高野線浅香山駅を目印にして歩く。
浅香山駅の南側の踏切を渡るしかなかったようだ。



浅香山駅の手前、不思議地蔵尊と記された地蔵堂がある。


観音扉を開けてみる。


不思議地蔵尊縁起(由来)

昭和の初め遠里小野町在住の佐野虎市さん・・・

縁起を読んでみたが、真実なのだろう、それにしても不思議な話。
そして、このお地蔵さんの胎内にご本尊を修めている。

つづく。



1月7日(日)06:16 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

住吉大社_止止呂支比賣命神社_極楽寺_方違神社21

前方に見える橋が遠里小野橋。(府道30号線)
大和川を越えて堺市に向かうには、あの橋を渡らなければならない。
随分と遠回りになる。

堺市側にも、遠里小野という地名がある。
遠里小野は大和川が付け替えられる前、陸続きの一つの集落だった。
それが、宝永元年(1704)の大和川付替え工事により分断された。
大和川は人工の水路。

ここ大和川の河川敷で昼食となる。



表示されている数字、“4.6km”は大和川の河口からここまでの距離。


昼食場所は日があたりポカポカして暖かかった。
この後、私は上着を脱いで歩いた。
この日は11月23日で師走が近いのに異常な暖かさだった。



来た道を戻って河川敷から上がる。


大和川の土手に沿って歩き、遠里小野橋に向かう。

つづく。



1月6日(土)06:57 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

住吉大社_止止呂支比賣命神社_極楽寺_方違神社20

小堂は二つに区切られ、左に雲上地蔵尊、右に白龍大神が祀られていた。


お地蔵様は二体あった。
大きなお地蔵さんの涎掛けを捲ろうとしたが、不快な虫が潜んでいたので途中でやめた。



こちらのお地蔵さんは、ここにご一緒させてもらった様子。


白龍大神は石の社に祀られている。


由緒書きによると、明治の初めの堤防決壊の補修に、やむなく寺院の墓石などを用いた。
その後、放置の状態が続いたが、戦後の河川改修の際に、川底から地蔵尊像が現れた。
墓石に混じって、地蔵尊の石像も堤防補強に使われたのだろう。
川底から発掘された地蔵尊像を遷座し、白龍大神を合わせて祀ることにより、今なお埋没する無縁仏を弔い、冥福を祈るようになった。
 
つづく。



1月6日(土)06:53 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

住吉大社_止止呂支比賣命神社_極楽寺_方違神社19

農神社は明治時代に止止呂支比売命神社に合祀されたようだ。


御祭神は、

蒼稲魂大神 (稲に宿る神秘な霊)
埴山姫大神 (土の神、土壌の神、肥料の神、農業神)
野推大神  (野の精霊)

文字通り“農”の神様。



農神社を後にする。


大和川の土手に上がる。
前方に小堂が見える。



丁度、南海高野線の電車が通過した。

つづく。



1月6日(土)06:47 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

住吉大社_止止呂支比賣命神社_極楽寺_方違神社18

レトロ調の門柱を正面から眺めてみる。
ところで、入口に野菜のようなものが植えられていたのが少し気になった。



極楽寺を後にする。
先程の野菜?がここにも置かれている。



ここにも、あっちにも。
後でわかったが、これは菜の花。
遠里小野は菜種油発祥の地だそうだ。
遠里小野は菜種油発祥の地ってご存じですか? - 大阪市

但し、菜の花ではなく、榛(はしばみ)と呼ばれる植物油の産地。(江戸時代)



農神社。
珍しい名前の神社。



境内に「遠里小野編入記念碑」があった。
(大阪市に編入)

つづく。



1月6日(土)06:43 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

住吉大社_止止呂支比賣命神社_極楽寺_方違神社17

火袋があるので燈籠だろう。
しかし、バランスが変なので、元からあったものではない。
“四月”と刻まれた上下にも何か文字が刻まれているようだ。
そして、火袋の中に妙な形をした石が収められている。
謎解き?



手水舎に文字が刻まれている。


左の漢字は“漱”。
どこかで見た漢字。
夏目漱石の“漱”だった。
意味は「口をすすぐ・うがいをする」。



右の漢字は、これもくずし文字なので、わかりにくい。
仮に“盥”だとしたら、「盥漱」で“かんそう”又は“うがいだらい”となる。



大正八年の銘がある門柱。
照明器具も本物のレトロ。
明かりが点いた状態が見たいものだ。

つづく。



1月6日(土)06:39 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

住吉大社_止止呂支比賣命神社_極楽寺_方違神社16

駒札には下記の通り記されている。
「楠木 正成公 奉納 石燈籠
建武三年 丙子 三月とあり」
建武の銘は目視ではわからなかったが、相当立派な石燈籠なので、そうなんでしょう。



アサギマダラ(浅葱斑)が好むフジバカマ(藤袴)だろう。


ヒガンバナ科のネリネ・ボーデニーと呼ばれる品種かな。
ネリネ属
Nerine bowdenii



こちらはシコンノボタン。(紫紺野牡丹)
シコンノボタン

それにしても、このお寺には、他ではあまり見かけない草花が多い。



このクスノキ、駒札によると、
「楠木正成公 御手植の楠」
樹齢687年ということになる。(2023年-1336=687)

つづく。



1月5日(金)06:04 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

住吉大社_止止呂支比賣命神社_極楽寺_方違神社15

小堂に祀られていたのは薬師如来?
風化が著しい。
相当古いものだろう。



力石。
止止呂支比賣命神社にあった“さし石”と同じ。
それにしても沢山並べてある。



観世音菩薩が祀られた観音堂。


ご真言は「おん あろりきや そわか」。


六臂(ろっぴ)観世音菩薩立像。
素晴らしい!

つづく。



1月5日(金)05:57 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理


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